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暗闇に手を伸ばすと、不意に指先がぶつかった。
木の幹であることは分かった。意図しない接触だったため当たりは強く指先が痛んだが、
網内は気に留める余裕もないまま今度こそ地面を掴み、重たい体を持ち上げた。
網内がこの町に住み始めたのはほんの半月ほど前である。望んだ転居ではなかった。住みにくそうな町だと思った。
彼の新居である社宅の周りには何もない。だからといって静かという訳でもなく、鳥かカエルか虫か獣が絶え間なく耳障りに鳴き続ける。最寄りのコンビニまで車で20分、ガソリンスタンドには30分かかる。風がやけに強く、どこにいても寒い。不満をあげればキリがない。
同僚は自然豊かな場所だと、良いところだと言う。網内にとってその言葉は嘲りに他ならない。
この町の全ては彼が左遷されたことの象徴である。網内はいつも下を向いて歩いた。
自分の靴の色も分からない暗い山道を、あてもなくただ遠くを目指して登って行く。
夜のドライブは、漫然と苛立ちを燻らせながら暮らす網内の唯一の楽しみだった。
未開を絵に描いたような薄暗い道を眩しいほど照らしながら鉄の車体で疾走すると、まるでこの町そのものを置き去りにするかのようだった。不愉快な、見捨てられたかのように荒れた道は、網内が受けてきた不当な仕打ち全てと重なった。
気が大きくなっていた。
人がいることには気づいていた。その上で車体を寄せたのだ。網内にとって、人々は町の一部に過ぎなかった。道に、畑に、あるいは家の中に蠢く町を構成する無機質なパーツだと。
接触するまでは。
せっかくのドライブ中に目障りだったから、軽く脅すだけのつもりだったのに。距離感を誤った。酒が入っていたせいもあるだろう。
こんなことで死ぬなんて思わなかった。
網内は老婆の首が折れているのを確認し、すぐに車に乗せた。山までの道のりに人けはなく、途中までは車で乗り入れられる。
そろそろ足の感覚がなくなってきた時、急にひらけた場所に出た。
もうここにしよう、網内は老婆を下ろすと、適当な木の根本にスコップを突き立てた。
途中見かけた小屋にあったものだ。これを見つけたことは網内にとって唯一の幸運だった。
休息を求める体に鞭打って、老婆を埋めるため、網内は地面を掘り進める。遠くでサイレンの音が聞こえるたびに手が止まり、首を振って自らを奮い立たせた。
時間がどれほど経ったのか、気がつくと自分の手がはっきりと見えるようになっていた。
ああ、爪が割れている。
そろそろ良いだろう。
網内は老婆の死体を担ぎ上げようと、ふと上を見た。この町にきて初めて上を見たのだ。
朝の陽光に照らされた木は、満開の桜であった。大ぶりの枝を無尽に伸ばし、薄桃色の花を重そうに広げ、まるで美しいトンネルのように。
春が来ていた。
網内は、ようやくこの町に色を見た。
その時、耳に小さく声が届いた。
振り返ると、たくさんの人が遠巻きに網内を見つめている。レジャーシートを抱えた男女、クーラーボックスを抱えたスーツの若者、弁当を抱えた中年の女。黄色い帽子の子供を連れ、急いで離れる母親。大勢の花見客。
何人かはスマートフォンを耳に当てていた。
サイレンの音が近くで止まる。
茫然と力の抜けた腕から老婆が地面に落ちた。
その荷物から滑り落ちたパックの団子がクシャリと潰れる音が、やけに大きく響いた。
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