信号待ちの桜

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 それは信号待ちの間だけ、俯きがちな彼女の視線を奪う。  寒さの残る朝の光の中で、彼女の首が傾き、イヤフォンのコードが揺れる。  同じ部署で働く俺は、「おはよう」のあいさつを交わすことさえできずに、そのようすをただただ見つめた。  なぜならそれは、市役所前に一本だけ植えられた桜の樹は、多くの人にとってスマホ以下の存在でありながら、彼女のくちびるをわずかに綻ばせるから。    ピィピィ。  スピーカーから流れる人工的な鳥の鳴き声に、信号待ちをしていた人々は一斉に動き出す。彼女の小さな願いを飲み込んで。八時四十五分、庁舎前で立ち止まる人間など一人もいない。  そうして、彼女も俺も人波に流される。
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