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「あの、八束さん。お花見に行きませんか?」
帰り際、向かいの角の桜を見つめながら信号待ちをしている八束さんを見つけた俺は、信号が青になると同時にそう口走っていた。
振り向いた八束さんは非常に驚いた顔をしているが、俺自身も己の行動に驚いている。一体何がそうさせたんだ。桜か。桜のせいなのか。
「五味さん。すでにご存知だと思いますが、私は飲み会とか苦手なので」
言いながら、八束さんは遠慮がちに横断歩道を渡り始めた。俺はそれに食い下がり、彼女の後を追う。
「いえ、そういうのではなくて」
「は? 金曜の話じゃないんですか?」
「違います。土曜の話です。お酒もお弁当も必要ありません。一緒に桜を見たいんです」
「見るだけなら、玄関前に咲いてるのでお一人で」
「八束さんと見たいんです」
横断歩道を渡り切り、桜の前で俺は立ち止った。
つられて八束さんも立ち止まる。彼女は不可解と言いたげな視線を俺に向けたが、俺の背後にある桜が目に留まったらしく、瞳がかすかに揺れた。
「できれば、もっとたくさん咲いてて、ゆっくりできるところで」
「はぁ」
「ねずみ島に行きましょう。八束さんは車持ってないですよね」
「そうですけど」
「だったら、ねずみ島に行く機会はそうないですよね。隠れた名所なんです。お酒飲んでる人は滅多にいなくて、ファミリー向けの散歩コースって感じで」
「知ってます。姉が結婚する前はよく一緒に行ってましたから。いいところですよね」
姉と仲が良いのだろう。訝し気にしていた八束さんの表情がやわらぐ。
「じゃあ」
「どうして私なんですか?」
「どうしてって、八束さんは物静かだけどすごく真面目で、いつもお世話になってますし。ほら、今日も俺が問い合わせの回答に困ってた時に資料渡してくれましたよね」
「それは社会人として当たり前の行動で、あんまり理由になってないと思うんですけど」
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