白濁の水脈

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ようやっと壁際に体をずり寄らせ、背中を預ける。一気に襲う嫌悪感。強い吐き気を催して思わずもどしてしまう。 どうしよう、怒られると迷うけれど体が言うことをきかない。耳障りな音と吐瀉物が口から止めどなく漏れる。 夫の優一に見つからないうちに、姑の節子に見咎められないうちに、綺麗に後片付けしなければ。頭はめまぐるしく動くが体がついてこない。どうしよう、早く!と何度も自分を叱咤するけれど、一通り吐き終えたら体はピクリとも動かなくなった。 自ずと死を連想する。殴られ血塗れになった体は言うことをきかず、体内からあらゆるものを吐き出し。 死ぬってこういう状態を指すのかも。 薄い意識が身体に起きた深刻なダメージを受け止める。克樹はどこにいるのだろう?声がしないということは家にいないのか。 「内緒だよ?」 父親に痛めつけられた母親をあの子はいつも庇ってくれる。母親の口にキャラメル一粒加えさせて必ずそう言うの。「内緒だよ?」 口を歪ませて笑って見せる。甘いねって。酷く不安そうな表情を少しでも緩めたくて。 だけど打ちのめされる様を見ていたこの子に 「大丈夫だよ!」 と笑って見せても逆効果なのは分かっている。止めてよって何度も夫にしがみ付いて泣き叫ぶ息子のために、私ができることって何だろう? 「少しは自分で考えてみろ」 夫にもそう言われた。克樹のためにできること。 さっきから震えが止まらない。限界がきたのかも知れないな、なんて薄く考える。だけど この家で死ぬの? ふと、そんなことを思って。 いやだ。絶対いやだ! 不思議なもんで極限に達したら動いて。体が。 吐瀉物なんて放置して外に出た。這いずったから床汚しまくって夫は怒り狂うだろうし、姑は酷く嘆くのだろうけど。 「あなたは何をやらせても何もできないと右から左に証明してみせるのよね」 すみませんなんて謝罪は言い過ぎて舌に染みついてしまった。 秋の終わり。宵闇が世界をくるむ時刻。暑いのか寒いのかも分からないまま、庭の芝生に仰向けになる。息が切れる。咳き込みたいけど咳をする体力が残っていない。顔を横に向けたら頬に芝生に宿った露が触れて、初めて温度を感じた。 「つ・・・めたい・・・」 最期の言葉になるのかも。 どうか克樹が私の亡骸を見ませんように。姑でも夫でもどちらでもいいから、克樹の目に触れる前に私をどこかに移してくれますように。 怒らないから。恨まないから。どうか。 「おい」 左手を思わず伸ばす。声のする方へ。 「大丈夫かあんた?」 夜の住宅街を照らす街灯に薄く映る見知らぬ人。 白い服、短い髪。 遥佳が記憶しているのはそこまで。目を覚ましてすぐ、知らぬ男の凝視に気付き声にならない悲鳴を上げた。 「上のじいさんが医者やってんだよ」 男は言った。 埃っぽい一室。カーテンは昼間も締め切られているのだろう。換気がされていないことはすぐ分かる。 上のじいさんとは上階の住民を指すのだろうか。何も言えずにいる遥佳に男はぶっきらぼうに語り掛ける。 「骨に異常はねぇってさ。よかったな。大分殴られたみたいだけど何があったんだよ?」 何って・・・。いつものことだ。 とても些細なことと遥佳は思っても優一は違う。 話しかけたのにこちらを見ていなかった。 克樹の教育方針に口を挟んだ。 姑の買い物に同行したのに疲れさせた。 これらを常にいけないことと優一はしない。話しかけられていることに気付かず家事に勤しんでいる遥佳に激昂することもあれば、どうでもいいといった顔で無視することもある。態度が定まっていない。 その時の気分で言われるのは辛いと打ち明けたときの怒りようといったらなかった。初めて手をあげられたのは克樹が生まれた2ヶ月後。出産直後から優一の態度はおかしかった。それまでの寛容さはなりを潜め常に苛立っていて、遥佳が微笑みかけてもにこりともしないどころか時に恫喝まがいの態度をとることもあった。 変化の兆しが全くなかったことと、思い当たる節がないことと。 遥佳が混乱したのは言うまでもない。優一は産後の妻を思いやることを忘れひたすらに追い詰めた。精神的にも、肉体的にも。 5年の歳月、状況は悪化の一途。それまで以上に料理に手をかけ丁寧に掃除し、優一にも姑にも仕えた。克樹は出産早々姑に取り上げられてしまい、傍においておくことは叶わなかったことは言い表せないほどに辛かった。 何をやっても伝えても改善しないのならいっそ、何もしない方がよいのかも。 そんな風に考えた遥佳を怠惰だと優一は詰った。限界だと感じた遥佳の口を突いて出た言葉は 「そんなことどうでもいいから克樹を返して!あの子は私が産んだ子なの!!」 男が言うにはあれから4日経っているそうだ。嘘かも知れないと薄く思うが事実かも知れないから口を噤む。
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