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母の姿が見えなくてしばらく町中を歩き回った。
思いつく母の知人の家の前を通り過ぎたけれど、母がいる様子はない。
いそうな近くの店に飛び込んで店内をぐるりと廻ってそのまま出る。
遠くに行くような支度をした気配はない。
自転車もそのままだ。
厭な予感が頭に渦巻き出した。
明確な理由じゃなかった。
ほんの些細なやり取りがきっかけだ。
落ち着けば何も怒るようなことじゃない、家族ならそういうことも話題にするだろうことだった。
そう、話題の方じゃなくて、俺が虫の居処が悪かった……。
言い訳にもならないが。
学校での人間関係のいざこざに鬱憤が溜まり、最悪な気分の中で母に話しかけられた時、それが気に障った。
癇癪がはじけて何の悪気も無かった母を罵倒し傷つけた。
本当は単なる八つ当たりだと自分でも分かっている筈なのに、転がり出した怒りは止めることができず無茶苦茶な言い分で母を追い詰めてしまった。
俺は鬱憤を晴らそうとして、自分に抗えない相手を残酷に一方的に傷めつけた。
歪んだ表情で母が目に涙を浮かべるのを背にして、自分の部屋に入った。
何も手につかずベッドに寝転がりながら、俺は自分が母へ叩きつけた言葉を思い出していた。
感情を爆発させた後で気持ちが鎮まってくると、自分の仕打ちが度を超していた事に気付き母が気になって来た。
そっと部屋から出て家の中の様子を伺うと、屋内の電気は全て消えており、どこにも母の姿がなかった。
母は家を出たようだった。
いや、きっとどこかでほんの少しだけ暇を潰して、気分を戻してから帰るんだろう、と思おうとしたが、既に自分の中では完全に後悔の念が溢れてきていた。
なんで俺はあんなこと言ってしまったんだろう、母さんが悪いわけじゃないのは分かってるくせに……。
俺は家を走り出て母の後を追った。
近くの公園にも……商店街にも……町の中のどこにも見つからない。
厭な想像が頭に浮かぶのを必死に止める。
あんなやり取りが最後だなんて、冗談じゃない。
俺は本当にガキだ、自分をろくに制御できないで取り返しの付かないことを……。
時刻は夕方に向かっていた。
そんな遠くには行っていない筈だ、筈だけど。
どこにも母の姿を見つけられず、道路を越えて町を流れる大きな川までやって来た。
その川沿いに盛られた堤防沿いには桜並木が植っていた。
季節の桜の開花で、日中から凄い人数が集まり花見や歩道の散策をしていて、夕方のこの時刻にも人の姿が途切れない。
散歩やランニングをする人々が土手の上を行き来していた。
太陽は既に沈みかけて照らす光はオレンジに変わりつつあった。
桜の花は本来の色ではなく橙色に染まっている。
日が落ちかけて辺りは暗くなり始めている。
土手を歩く人影の中、母が、ゆっくり歩いているのを見つけた。
花の咲いた桜の樹を見上げながら、一人、とてもゆっくりと。
土手を駆け昇って怒鳴りつけそうになり、けれど抑えた。
ゆっくりと土手の上まで登りきり、夕空の色を写した川面を見た。
母の方はまだ俺に気づかない。
時折、立ち止まっては真下から桜の樹と花を見上げている。
横顔を見た、寂しげで穏やかな横顔を。
——母さん
と俺は声をかけた。
母は俺を見た。
——あなたも来たの
——桜を見に?
——綺麗だね
あんなにきつく罵倒して傷つけたのに、母の表情は穏やかだった。
まるであんなやりとりが無かったかのように……
でも忘れてるわけじゃないでしょうに。
——そろそろ帰らないと こんな時間だし 真っ暗になる
——そうだね
——もっと明るい時に見に来たらいいだろ 桜
——毎年 気がついたら花の時期が過ぎてしまってたからね 今ならまだ咲いてるかなと思って
——明るい時に見にこよう ちゃんと花が見える時間に
二人で並んで桜沿いの歩道を歩く。
傍目には中の良い親子連れに見えるかもしれない。
——母さん ごめん
ぽつりと俺は口にした。
——何が
穏やかな顔で、何も無かったかのように母が答える。
——母さん ごめんね
もう一度、俺は口にした。
——はい
と母は答えた。
日が落ちて、地上の景色が影絵になり、道路沿いの街灯が灯り始める。
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