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縁側、やわらかい日差し、暖かな陽気。
目の前に広がる花壇には、花壇の一角をピンクや青に染める芝桜とネモフィラ、鮮やかでふっくらした形が可愛らしいチューリップ、白が眩いマーガレットが咲き乱れ、終わりかけの菜の花が菜種を蓄えたサヤと共にゆらと揺れる。
春の喜びを表したかのような色とりどりの庭に目を細める中、鮮やかな場には余りにも似つかわしくない灰色の欠片が風に乗って舞うのを見つけ、そっと目を閉じた。
瞼を閉じれば、日の明かりだけが薄い皮膚越しに透けて見え、そして視覚を遮断したことで聴覚が研ぎ澄まされていく。
シャキシャキと鋏の音。それに混じって、下方――肘の辺りにパサリパサリと乾いた落下音が聞こえる。切ったばかりの髪が体を覆うビニール風呂敷の上に落ちたのだ。
「まったく。この子はいつまで爺の手を煩わせるつもりだろうね」
後ろ髪を一房掬う感触。小気味よい散髪の音に混じり、爺ちゃん兼ボク専属の床屋さんが文句を言う。
でも、ボクはちゃあんとわかってるんだ。爺ちゃんがブツクサ言うのは、爺ちゃんなりの愛情表現なんだってさ。
その証拠に、ボクの髪や肌に触れる指は至極丁寧なんだ。ボクの肌に触れる節くれだった手の甲は、彼が鋏からボクを庇ってくれてるのは、言われなくたってわかってる。
「爺ちゃん、ボク、知ってるんだからね。爺ちゃんがボクの髪、存外気に入ってるってこと」
寝起きはあとが残ってるし、どんなにブラシで整えても跳ねるしうねる、クセの強いボクの猫っ毛。持ち主のボクてさえ制御不能と諦めた髪を弄るのが爺ちゃんの密かな楽しみだ。
そうでなきゃ、ボクが幼い頃から何かにつけて髪に触れたがり、ちょっと伸びれば切りたがるわけがない。
確信を以て言うボクを、爺ちゃんは鼻で笑った。
「何を抜かすのやら。るか、お前さんはねぇ、もうちっと身嗜みを整えることを覚えなさいな」
ファサファサパタパタ、髪を揺らしたり払ったりして余分な毛を落とされ、ビニール風呂敷の皺の部分に溜まっていく。
「お前さんの髪は、お婆さん譲りなんですよ。覚えておいでかい? 彼女の、いつでもかつでも凛とした出で立ちを」
覚えてるさ。
婆ちゃんはとてもとても美人さんだった。容姿が……というよりも、雰囲気が。まるで彼女のまわりにだけ冬の澄んだ冷たい空気が漂ってるのかと思うような、常にシャンとした姿勢が、彼女の聡明さと美しさを際立たせた。
まあ、口を開けばサバサバして闊達な、最期の最後まで江戸っ子みたいな婆ちゃんだったけども。
「つまりは?」
「ヤなんですよ。あの一切の乱れを良しとしないひとと同じ髪を持つお前さんが、野良猫のような風貌をしているのが」
「ボクは自由奔放なのさ」
「えぇえぇ、存じておりますともさ。けれどもね、るか、高校生になったならちょっとはそれらしく振る舞いなさいな」
「それで爺ちゃんのお小言が減るなら考えてもいいかな」
「今よりはマシになるのは確実ですねぇ」
「でもね、爺ちゃんがボクの髪に触れてくれなくなるのはイヤだな」
わざと甘えた声で言ったなら、ペシリと頭を叩かれた。
「そんな口説きは、好いたお人に向けるモンだぁな」
爺ちゃん、日頃は慇懃なのに、変なところで江戸っ子になるの、なんなの?
「ほら、背筋をシャンと伸ばして。顎を引きなさい」
「ふぁーい」
言われたとおりに姿勢を正したついでに、閉じていた目わ開ける。
目に映るのは、春爛漫の景色とたまに目の前を落ちる髪の毛、そして灰色の花びらの舞。
「爺ちゃん」
「なんだね」
「今のテレビのニュースってさ、桜の話題ばっかりなんだよ」
「そりゃまあ、見頃ですからね」
桜の開花宣言に始まり、見頃や開花の経過、花見の様子、各地の穴場情報など、毎日毎日飽きずに桜の話ばかりだ。
「この近年の桜は色か濃いらしいね」
「ええ。これまでの桜の代名詞たるソメイヨシノが各地で寿命を迎えて、別の品種が目立ってきましたからね」
「枝垂れ桜とか八重咲きとかボタン桜とかもあるんだよね」
「テレビや図鑑で見たかね」
「まさか」
ヒラヒラ。
風に乗って飛んでくる灰色の花弁は、この爺ちゃんちに昔からある桜から散ったもの。
その桜はボクが生まれる前からここにあったらしいんだけど、けど、ボク、この桜がどんな色でどんな形の花を咲かせるか、知らないんだよね。
ボクの目に映るのは、古木の枝にまとわりつく灰色の雲なんだ。目を凝らせば、ぼんやりと花の輪郭が見えるけど、どうにもはっきりしない。
「今年も駄目そうで?」
「駄目だね。まったくさっぱり全然だよ」
家の桜だけでなく、町中……いや、どの地域でもどの媒体を通しても、ボクのこの目は桜の姿を正確に捉えることができないんだ。
怪我とか病気とか後遺症とか呪いとか、そんなんじゃない。じゃあ、何かって言われると、一番当てはまるのはこれかもね。
――神様の気紛れ。
「桜だけが見られないけど、だからってそこまで不便ではないけども」
シャキシャキと鋏の音に紛れるよう、小さく呟くその声に爺ちゃんは応えない。
「卒業式とか入学式で桜を背に写真を撮ったり、花見を楽しむ人達の気持ちをボクはよくわからない」
見るだけでも憂鬱な気持ちになりそうな灰色の、花咲爺さんが撒くそれになりそこねた灰を塗り付けたような花木を愛でる気持ちがボクには理解できないんだよね。
「それがつまんないかな」
ボクの家族は、ボクを除いて花見に行っちゃった。
家族が薄情なんじゃないよ。ボクが行っておいでと勧めて、率先して身を引いたんだ。爺ちゃんはそんなボクに付き合ってくれた。
「髪を切ったらば、いつもの通り、まずは頭を洗いなさい。丁寧に櫛でとき、ドライヤーで乾かすこと。そうしたらね、つまらないこと全部、どうでもよくなりますから」
ジャッキジャッキと梳き鋏で毛量を抑えたら、頭が幾分か軽くなる。
「お前さん、花見お弁当を持って来たでしょう? それをね、あの花壇の前でいたたきましょうかね。ちょうど、昨日いただいた筍で若竹煮とお吸い物をこさえたから、それもつけて」
「お吸い物にもち麩入れた?」
「いいえ。けれど、特別に入れてあげましょうかね。お前さんにとっては、花を愛でるより気分が上がるでしょう」
「ん! そだね」
知らず俯いていた頭を上げ、胸を張る。
爺ちゃんがうなじや首や顔を手拭いでパタパタと軽く叩いて、髪の毛を除いてくれた。
体を覆っていたビニール風呂敷を外せば、切った髪の毛の量を見て取れる。こりゃまた、たっぷり切られたな。
「爺ちゃん、ありがと」
「どういたしまして。ほら、とっとと風呂場に行く」
「はーい」
視覚に入る桜吹雪は相変わらずの灰色でも、憂いも胸中の燻りも切られた髪と共にサヨナラする。
桜は灰色でも春は春。他の花を愛でればいいのさ。
ボクは春を存分に楽しむべく、まずは浴室へと駆けていった。
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