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 1984年1月4日、今は昔の物語。    あの瞬間、真夜中の路地の上だというのに、目を開くと全てが白かった。おまけに冷たい。皮膚が触れる何処もかしこも突き刺すような冷気に溢れている。    それが何故かはわかっていた。    闇に包まれている西の空の先、標高2000メートルを超える飯豊山から越後平野へと下る強い寒波により、絶え間なく舞い落ちる雪のせいだ。    新潟県新発田市東部、広大な水田を背景にまだ開発されて間もない住宅地には一戸建ての真新しい住居が点在し、隣接する歩道には1メートルを優に越える高さまで積雪が達していた。    道端に立つ街灯が僅かな光源となり、斜め上方から差込む光で淡く輝く雪。    その柔らかな白い層の奥底へ、当時まだ7才に過ぎなかった稲垣好幸は全身丸ごと埋もれている。    顔を上げると夜空が彼の埋まった窪みの形で切り取られ、黒くて丸い窓に見える。    感覚の全てが何処か現実味を欠いていて、ちくちく刺す冷気の最中、雪に囚われた体は身動き一つとれない。    でも不思議と怖さは感じなかった。    闇の彼方に瞬く光、黒雲の合間に垣間見える月や星の煌めきへ手を差し伸べてみる。すると大きくて分厚い掌が二つ、上から下りてきて、好幸の脇腹を両側から捉え、力強く持ち上げた。    わぁ、高い!    叫んだ好幸の目前に父・幹雄のいかつい顔がある。その大柄な体を揺らし、持ち上げたままの幼い息子へ向けて豪快に笑う。   まだ若い、39才の父だ。  働き盛りの体力は体にまとわりつく積雪をものともしない。その背後に立つ父より一つ年下の母・俶子は旅装に身を包み、やはり腰の上まで雪に埋もれていた。 「好幸、もう少しの辛抱よ。もう少しで家の前まで辿り着くから」  偉丈夫の父に比べ、小柄で華奢な体つきの母が心配そうな声で言う。 「平気。すぐお父さんが引き上げてくれるもん」  いかつい顔が笑った。  そして、逞しい腕が好幸の体を前方へ大きく放り投げる。  ドサーン! 再び雪へ沈み込んだ体を掴み、更に前方へ投げる。ニメートル近く、距離を稼いで……    ムギュッ!?    勢いが付き過ぎ、頭から雪へ突っ込んで鼻へ雪が入った。悲鳴を上げる前に好幸の足首を捕まえ、父が逆さまに持ち上げる。   「ちょっと……やめてよ、お父さん」  持ち上げられる事より宙吊りにされるのが耐えがたく、好幸は下から父の顔を見上げて細やかな抗議をした。 「これぐらい我慢できんか?」 「だって、逆さま……やっぱり、こわい」 「そうか、ふ~ん、この程度の我慢もできんのか、お前は」  挑発的な口調に子首を傾げた薄笑い。ひ弱な息子を憐れむ父の素振りに好幸の恐れは吹っ飛び、代りに幼い強がりが胸へ満ちた。   「もう良い、もう平気!」 「へぇ、本当?」 「ぼく、もう怖くないから、ドンドン投げて」 「後で泣いても知らないぞ。次はもっと深く、頭から雪へめり込むかも」 「へっちゃらだよ。お父さんこそ疲れたんじゃない?」 「ふふっ、生意気な奴」  従順でおよそ夫に逆らった試しの無い母は気を揉みながらも口を挟まず、雪の夜の子供投げは勢いよく再開された。    何度も繰返し、行く手を阻む雪の上へ投げ飛ばされる。    そして、その度に距離を稼いで、路地の奥にある家の門へ近づいていく。木造平屋の一階建て、稲垣一家が当時、住んでいた社宅だ。    ゴールの接近が嬉しい反面、好幸は寂しい気もした。    いつも仕事ばかりで遊んでくれない幹雄の笑顔を見続けていたいと思う内、二つの掌が一際高く彼を放り投げ……  2023年8月2日、父の武骨な掌とは違う柔らかな指先の指先が、時を重ね、46才になった好幸の肩を揺さぶって深い眠りから覚ました。   「あなた、おはよう」  病院の小会議室に置かれた簡易ベッドの傍らに立ち、彼の妻、円が微笑む。    円は好幸と同い年の46才。    東京都内の私立大学で同じゼミの仲間として出会い、学生結婚で結ばれてから二十四年を経過しているが、浮べる笑顔は若々しく見える。    子供がいないせいかもしれない。二人とも子供好きなのに、手を尽くしても子宝には恵まれなかった。    その心労と悲痛は夫の好幸にも計り知れない。散々話し合い、不妊治療を止めた後、笑顔の雰囲気は変わらずとも白髪の量は増えた気がする。   「親父、大丈夫か?」  重い目蓋をこすりながら好幸が尋ねると、円は頷いた。    現在、好幸の父は持病と肺炎の合併症による意識障害に陥っており、好幸達は付添いの為、千葉県我孫子市にある救急指定病院に寝泊まりしている。    病室が狭い為、病院側の配慮により小会議室へ折畳みベッドを置かせて貰い、そこで仮眠を取る毎日だ。    腕時計を見ると、もう午前11時を過ぎていた。夜の看護は好幸、昼は円が主に看、其々の負担を減らしているのだ。   「あなた、今日は眠れた?」 「うん、親父の夢を見たよ」 「子供みたいに笑っていたわ。あなたのあんな顔、久しぶりに見ました」 「俺がまだ子供の……うん、小学二年生だった年の正月、親父の故郷へ里帰りしたんだが、帰り道で大雪に遭った。家に辿り着くまで凄く苦労して、その時の夢さ」 「子供の頃って言うと、あなた、北陸に住んでたのよね」 「ああ、親父は大手保険会社の社員でさ、三、四年年ごとに各地の支店へ異動していた。当時の勤務先が新潟支社、住処の借り上げ社宅は新発田市」 「新潟市内じゃないんだ」 「うん、昔から通勤の便は割と良い所で、今も新潟のベッドタウンとして発展しているけど、いかんせん、冬がつらい」 「積もるもんねぇ、雪が。あの辺りは半端なく」 「都会暮らしじゃ、まるで想像つかないレベルだよな。普段の年でも十分豪雪なのに、その年は又、記録破りの降りになった」  そこまで言って、ふと感じるデジャブ。    この話、前にも妻にした気がする。    でも長い間、父と不仲だったせいか、詳しく話すのはこれが初めてだと着替えをしながら好幸は思う。   「遅れに遅れた電車が新発田駅へ辿り着いたのは真夜中だった。何処のホテルも満室で、幸い家の近くを通る国道までタクシーで行けたから」 「後は雪中行軍ですか?」 「うん、父と母と俺、三人家族でまだ雪かきもされていない路地を歩いた」 「下手すると遭難だね」 「何しろ、当時の俺の背丈より雪が高く積もっていたからな。まともに歩けやしない。仕方ないんで親父、俺の体を前へ放り投げ、それを繰り返して距離を稼いだ」 「あ、それ、怖い」 「今、考えれば無茶も良い所さ。親父、学生時代にラグビーで鳴らした分、若い時分は脳筋って言うか、体力に自信を持ち過ぎてて」 「それでも、何とか辿り着いた訳ね、遭難もせず」 「そうなんだ」  つまらないダジャレに円は呆れ顔で立ち上がり、二人で小会議室を出て、廊下を歩き出す。入院患者用の洗面所前を通り過ぎたら、ナース・ステーションが近づいてきた。    その正面に好幸の父の病室がある。    患者が危険な状態にあればある程、看護師が駆けつけやすい位置、即ちナース・ステーションの近くへ置くのが病院の常道。一番近いこの部屋は、即ち、最も死に瀕した患者の定位置ともいえる。
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