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【side:羽琉】過保護な庇護とΩであるということ。
ギリギリまで空き教室で過ごし、教室に戻る間もふたりは僕から離れようとはしなかった。
「政文がマーキングしておけば大抵のαは諦めるんだけどね」
そんなことを伊織が言い出し「俺と伊織でマーキングすれば最強じゃない?」と政文まで言い出したけど、それは遠慮しておいた。もしもまた触れられただけで気分が悪くなったら誤魔化すことはできないだろう。それに、それを受け入れた時に僕はαからは守られるけれどΩから敵意を向けられかねない。
政文は政文で、伊織は伊織で〈Ωとは付き合わない〉と公言していても諦めていないΩも多いから。
「帰りは車まで送るから」
クラスの違う政文はそう言って自分の教室に戻って行ったけれど、教室に入ってからずっと燈哉が僕のことを目で追っていることには気付いていた。
その視線が嬉しくて、その視線の意味がどんな感情であっても燈哉の視界に入ることができるだけで嬉しいと思ってしまう。
もっと僕を見て。
もっと僕を感じていて。
だけど、空気の流れのせいなのかふとした拍子に流れてくる今居涼夏の香りにまた傷つけられる。
「燈哉、今日は羽琉に近付くなって言われたよね?」
少し匂いが強くなったと思ったのは燈哉が僕に近づこうとしたからで、それに気付いた伊織の牽制する言葉でそのことに気づく。
「羽琉」
そう名前を呼ばれてもどうしていいのか分からず返事をすることができない。
燈哉と向き合いたいけれど、あの香りを纏っている間は対峙しても気分が悪くなるだけだろう。僕にとってはそれくらいストレスなのだから。
仕方なく伊織の制服の裾をそっと引っ張るとその意味に気付いたのだろう、「ほら、チャイム鳴るから席に戻ろう」と僕を席まで誘導してくれる。燈哉のそばに行きたいのに行けないことだってストレスだけど、それ以上にストレスを与える香りに苛立つことしかできない。
午後の授業の間も燈哉が僕を気にしていることには気付いていたけれど、授業が終わるとすぐに伊織に連れられて車に向かう。クラスの違う政文はホームルームが長引いたため途中での合流だ。
「あれから燈哉、今居の匂い消えてないのに話しかけてきたんだよ?
アイツ、最低」
追いついてきた政文にそう言って「明日の朝も3人で教室行くからね」と宣言する。朝と違い時間に余裕があるためゆっくり歩いていると僕に声をかけようとするαがいるけれど、その都度政文が牽制すれば僕まで辿り着くことはない。
「ひとりで大丈夫って言いたいけどお願いしてもいい?」
正直なところふたりと過ごしてしまうと燈哉との距離が離れてしまいそうで不安だけど、α避けとしては優秀すぎるふたりから離れるのは得策じゃ無い。
「菓子折りもらったしな」
ふたりの時間を大切にしたいはずの政文はそう言って笑うけれど、自分を守るために甘えるしかない現状がもどかしい。
僕がΩでなければこんな思いをすることはなかったのにと、燈哉が余計なことを言わなければこんなことにはならなかったのにと思ってしまうのは、事あるごとに「羽琉にヒートが来たら」なんてわざわざ公言していたから。
誰とも交わったことのないΩを望むαは案外多いのかもしれない。
燈哉の過保護加減は僕を守ってくれていたけれど、その過保護な庇護がなくなったせいで危険に晒されることになるなんて皮肉なものだ。
「あ、車来てるよ。
隆臣さんも大概過保護だよね」
そんな風に伊織が笑えば僕たちに気付いた隆臣が車から降りてくる。Ωも多く通うせいで送迎専用の車回しや駐車場も完備されているため隆臣は早めに来て駐車場に車を入れていることが多い。
今日もきっと、早めに来ていたのだろう。
「政文さん、伊織さん、昨日は羽琉さんがお世話になりありがとうございました」
車から降りるとふたりに頭を下げる。中等部の頃は燈哉がここまで送ってくれてたのにな、と考えてしまう僕の横で3人で何やら話し始める。
僕が自分で伝えられることまで話しているふたりは隆臣のことを笑う資格はないと思いながらも、自分の口で伝えたくないこともあるため正直ありがたい。
「明日からも僕と政文が登下校の時は付き添うつもりですし、クラスは僕と同じなので問題ないです。
抑制剤は僕も政文も常に携帯してます。羽琉にも常に抑制剤を携帯させてください」
流れるように要望を伝え、隆臣もそれに応える。ここで燈哉の存在がないことに言及しないのはβとして弁えてるからなのだろうかと、失礼なことまで考えてしまう。
「ネックガードの鍵は羽琉に持たせてないよね?」
「もちろんです」
「あ、万が一の時のためにΩ用の抑制剤を俺たちが携帯することは可能ですか?」
「用意します」
なんだか大事になってしまったけれど、庇護が無くなった僕はそれほどに危険な立場になってしまったということなのかもしれない。
「羽琉さんのこと、よろしくお願いします」
話が終わり、翌日からのことを再確認すると隆臣が改めて頭を下げる。今日の彼は頭を下げてばかりだ。
「何かあった時には直接連絡させてもらいますから」
「お願いします」
「………お願いします」
隆臣と一緒に僕も頭を下げると2人は苦笑いをして「そんなに畏まられると困る」「友達なんだから、羽琉はありがとうで良いんだよ」と口々に言って「じゃあ、また明日」とふたり揃って歩き出す。
僕も隆臣に促され後部座席に乗り込み、そのままクッションに沈み込む。昨日も今日も、色々なことがあり過ぎてこれからのことを考えると頭が痛くなる。
「大丈夫ですか?」
「伊織と政文がいてくれたから」
「そうですか」
車を発進させて口を開いた隆臣だったけれど、それ以上は何も言わなかった。ふたりから話を聞いていたから燈哉のことも把握しているだろうし、隆臣が何か言ったところで何も変わらないのだから余計なことを言うつもりもないのだろう。
βである隆臣には燈哉の急な心変わりが理解できないのだろうけれど、それでも何も聞かないのはαとΩについての知識を僕のために勉強してくれたから。
だからこそ燈哉個人として見るのではなく、【唯一】を見付けてしまったαとして頭で理解したのだろう。
「隆臣、学校行きたくない」
「まだ2日ですよ?」
「そうなんだけどね…」
行きたくないのは本音だけど、本当に休む気はない。僕が休んでしまえば燈哉と今居涼夏が喜ぶだけだ。
このまま僕が休み続ければ周りは僕に同情するのではないかなんて狡いことも考えるけど、その間にふたりが仲を深めてしまえば仕方ないと言うしかなくなるだろう。
何を言われても、どんな目で見られても、番ったふたりに対して世間は寛大になるしかないはずだから。
「クリニックに連絡しておいたのでこのまま薬を受け取りに行って良いですか?」
「うん、お願い。
少し寝るね」
「分かりました」
そのままクッションに身を委ね、目を瞑り考える。
今朝、燈哉に纏わりついていた彼の香り。残り香とは違う、混ざり合った濃い香りはふたりの関係を周囲に示すためだろう。
編入してきたばかりのΩに危険がないように燈哉がしたことは間違いじゃないし、自分の【唯一】を大切に思うのならマーキングして、誰のΩかを明確にする必要があるのも理解できる。
高等部の1年だと言っても幼稚舎から通い続けているのだから先輩たちだって燈哉の存在を知っているし、知っていれば燈哉のΩに手を出そうとすることもない。燈哉の存在はそれだけ認知されているのだから、見慣れないΩである今居であっても燈哉からのマーキングがあれば平穏無事に過ごすことができるだろう。
その時、今居涼夏と体液の交換をしている時に燈哉は少しでも僕のことを考えてくれたのだろうか?
今居涼夏を囲ったことで、僕がどんな立場になるのかなんてどうでもよかったのだろうか。
「Ωだから仕方ない」
幼い頃から何度も何度も自分に言い聞かせてきた言葉を小さく呟く。
本当はΩだから仕方ないわけじゃないことなんて、とっくに気付いてる。
だって、ΩであってもΩ性を武器にせず、Ω性を逆手に取らず過ごしているΩだってたくさんいるのだから。
『Ωだから仕方ない』
自分に都合よく使っていたその言葉が僕を苦しめる。
『Ωだから仕方ない』
そんなふうに言い訳をして燈哉に寄り添うことを強要したのに、こんなにも簡単離れて行くなんて思ってもみなかった。
『Ωだから仕方ない』
そうなふうに耐えているフリをすれば、ずっと側にいてくれると思ってたのに。
燈哉からのマーキングを受けるようになってからも中には燈哉の目を掻い潜って僕に声をかけるαはいた。
それは先輩であったり、同級生であったり、後輩であったり。自分の方が燈哉よりも大切にするから、と囁やかれても怖いだけで、以前に揶揄われた時のことを思い出してしまい何も答えることができなかった。
幸いなことにそんな風に声をかけてくるαは僕に無理強いすることなく、それでも自分を選んでくれると嬉しいと伝えてくれるけれど、揶揄いの対象になったことのある僕はその言葉を素直に受け止めることはなかった。
だって僕はΩなのだから仕方ないのだ。僕みたいなΩは庇護してくれるαから離れるべきじゃないし、僕は選べる立場なんかじゃない。
だから、選んでくれた燈哉から離れるべきじゃないし、離れていいわけがない。
そのためにも燈哉が離れて行かないように燈哉が守りたくなる僕でいたのに、それなのに燈哉は僕じゃないΩを選んでしまった。
「Ωだから仕方ない」
燈哉が僕から離れてしまったのは僕がΩとして彼よりも劣っているから。
伊織と政文に守られるしかないのも、燈哉を諦めるしかないのもΩだから。
Ωだから仕方ない。
Ωだから仕方ない。
Ωだから仕方ない。
言い聞かせるように何度も何度も呟きながら、僕はそのまま眠りについた。
「起きていればまだしも、眠ってる羽琉さんを残していくことなんて無理ですよ。羽琉さん、Ωなんですから」
そんなふうに隆臣が苦笑いを見せたのは家に着き、「羽琉さん、そろそろ起きてください」と起こされた時。クリニックはどうしたのかと心配した僕に「事情を話して車まで届けてもらいました」と笑うけど、寝不足の様子の僕を気遣って無理を通したのだろう、きっと。
『Ωだから仕方ない』
その一言が、僕を雁字搦めにしていく。
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