2人が本棚に入れています
本棚に追加
──やさしいねぇ、と。彼は俺に事あるごとに言う。笑いながら。からかう色もなく。ただ「やさしいねぇ」と目を細めて笑う。その笑顔に俺は居心地の悪さと、一抹の恐怖を覚えていた。
優しさを相手に伝えることは賞賛であり圧力でもある。彼が優しさを言葉として形にするたびに俺はくすぐったくもあり、また、心の奥底でざわめく違和感を次第に憶えるようになった。
「やさしいねぇ」
クラスメイトの落とし物を届けた時、彼は言った。
「やさしいねぇ」
友達の忘れ物を手渡した時、彼は言った。
「やさしいねぇ」
親友にからかわれた時にも、そう、彼は言った。
俺は心の底の違和感に向かい合う。からかう色もなく心から褒めてくれているはずなのに、なぜ、なぜ。彼の言葉はこんなにも不安を感じるのだろうか。
「お、何してるの?」
ある日の帰り道、そんな思考に耽っていると背後から声を掛けられた。振り返ると優しげなまなこがこちらを見つめている。彼だ。件の彼だ。線の細い顔立ちに人懐っこい笑みを浮かべて駆け寄ってくる彼に、俺は片手を振ってぞんざいに答えた。
「家に帰ってる」
「見たら分かるよ〜。で、何を考えてたの?」
「別に」
「冷たいなぁ」
俺の素っ気ない態度にも彼はころころと笑うばかり。
──と、思うと。彼は人好きのする笑みを引っ込めてまばたきもなく俺を見つめる。その無機質な瞳と視線が絡んで、ぐっと息が詰まるのを感じた。
「──ねぇ、前から気になってたんだ。この機会に良ければ教えてほしい。
きみはどうして優しいひとであろうとするの?」
「──は?」
思わず、おもわず。間の抜けた声を上げてしまった。
彼は俺をまんまるな瞳で見つめる。じいっと。
「……良いことを積み重ねても周りがそれに応えてくれるとは限らない、ひとは誰かに疎まれることはどうしたって避けられない。いろんなひとに好かれることは到底無理な話だ。
他者に与えてばかりのこころは、いつか壊れる。
──それなのになんで、きみは優しいひとであろうとするの?」
ひとくくりに利己的と言ってしまえば話は早かったんだろう。だが、見開かれたまなこの奥にはかすかな心配の色が揺らいでいた。
落とし物を届けた時も、忘れ物を手渡した時も、──からかわれた時も。根底には確かな『優しさ』があった。それは「ありがとう」という言葉や「ごめん、やりすぎた」という言葉に形を変え、俺の心のなかに降り積もっているのだ。その堆積が無に帰すことのない限り、俺はそれを標にこれからも笑顔でいられる。
だから、俺は言った。
まなこの奥に揺らぐ声無き『優しさ』に向けて。
「お前は優しいやつだな」
「──え、」
彼は目を瞬かせて、視線を逸らす。斜め上に向けられたそれは何かを思い出すようでもあって──、
しばらくの間を置き、ひとことこちらに尋ねた。
「今日、確かエイプリルフールだよね?」
俺は笑った。気にするところが素っ頓狂過ぎる。
「もう午後だから嘘は吐いたらいけねーんだよ」
最初のコメントを投稿しよう!