春は別れの季節、門出の季節

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 ――素直にかわいいねっていえばよかったんだ。  微妙に目を合わせないまま、彼は小さく笑った。  春は別れの季節だ。新しい人生への門出でもある。諸君のこれからの未来に幸多かれ。  担任から多少くさい激励の言葉をもらって、高校生活最後のホームルームが終わった。 「先生も早く結婚しなよね」 「おい! それはセクハラだぞ!」  お調子者の生徒が湿っぽくなった別れの空間に茶々を入れて、担任もすかさず返して、教室が笑いに包まれる。ある種独特のこの空気を払拭したくて彼がおちゃらけたのは誰の目にも明らかで、誰もかれもが目に涙を溜めて鼻を赤くしていた。  最後の号令、最後のじゃあな、最後の机、最後のイス、最後の黒板に最後のドアに最後の廊下。最後の窓閉めをしたのは誰だろう。となりのクラスはまだホームルーム中のようだ。俺は一緒に下校するとなりのクラスの友人を昇降口で待っていた。 (まだかかるかな。うちのクラスもアルバムに寄せ書きとかしてたしな――っと)  いつものくせでスリッパを下駄箱に入れそうになって慌ててカバンを漁る。なにに入れて帰ろう。ちらっと周りの下駄箱を見ると、うっかりスリッパを置いて帰ったやつらが数人いた。これはとりに来るんだろうか、それとも学校側で捨てるんだろうか。 「ねえ」  適当な袋が見つからず途方に暮れていると、横に誰かが立った。顔を上げて誰かを確認する。とたんに胸がドクンとひとつ跳ねた。 「ちょっと時間いい?」  それがあまりにも意外な人物だったから、俺は強張った頬を動かして「いいよ」と返事した。自分の耳にすら届かない囁き声になってしまったものだから、そのあと震えるように頷いた。  先だって歩き出した相手の顔も俺と同じくらい引きつっていたように思う。  教室棟とは昇降口を挟んで対面にあたる特別教室ばかりの校舎に入り、彼が足を止めたのは、技術室前の廊下だった。一階の教室はみな使われておらず、二階の教室から声が聞こえている。 (なんの用だろう)  ドクドク動く心臓はふくらはぎのほうまで震えさせた。  俺を呼び出した相手は、内頬肉を噛んでいるのか、頬に窪みができている。視線が右に行って停止し、左に行って停止しをしばらく繰り返した。よっぽど言い出しにくいのか話しづらいのか、緊張が伝わってくる。  殴られる心配はしていない。そんな人間じゃないと九年間のつきあいで知っている。いや嘘ついた。つきあい、はないや。クラスが同じだっただけ。話したこともない。 (そろそろ二組もホームルーム終わったかなあ)  気がそれたことに気がつかれたのか、呼び出しておきながらだんまりだった相手――久原(クバル)の足が動いた。スリッパの底が廊下に擦れてキュッと鳴る。 「――謝らないといけないとずっと思っていたんだ」  低く耳触りのいい声。いつの間にか声変わりをして、小学生のときはあんなにひょろっとしていたのに骨格がしっかりして体格もよくなった。俺はそれを同学年の、ときにはクラスメイトの一人として見てきた。 「――なにを?」  問えば苦々しい表情を隠さない。覚えてないのかもしれないけど――小さな前置き。覚えてない? そんなわけない。すぐに心あたる一言をずっと覚えている。 「昔、おまえに不細工だっていったこと」 「ああ」  うん。覚えてる。覚えているよ。忘れずはずない。  小学校中学年の遠足の日だ。人見知りが激しくて、クラス替えをして間もない自分のクラスに友だちがいなかった俺は、違うクラスに離れてしまった友人と一緒にお弁当を食べていた。友人となんの話をしていたのかなんて覚えちゃいない。だけどすごく楽しくて、ガハガハ盛り上がって笑っていたのは覚えている。そこに早々(はやばや)弁当を済ませてドッジボールを持って現れた友人のクラスメイトたち。その中に久原もいた。  知らない人間に囲まれ見下ろされて、ピクニックシートに座っていた俺は一瞬で笑いを引っ込めた。怯えてうつむく俺に久原は笑いながらいったんだ。――なにそいつ、すっげえぶさいく、って。  振りかざす必要のない言葉の刃。いきなり現れて人のことぶさいくって、なんだ。 「ずっと後悔してた。なんであんなこといったんだろうって。素直にかわいいねっていえばよかったんだ」  俺は傷ついたし、友人のクラスごと嫌いになったし、久原本人についてはいわずもがな。なんにもしてないのにひどいことをいわれて怖かったし、腹も立った。俺ってそんなに変な顔してるのかって、写真なんかでも笑えなくなった。笑顔がコンプレックスになって、話すときにも口に手をやるのがいつのまにか癖になってしまって、中学のときにそれを指摘されてからは話すこと自体も嫌になった。 (……) 「え?」  いや、うん、ちょっと待って。罵倒するのがいいのか、気にしていないふりをすればいいのか、いままで忘れていましたけれどなにかとすげなくしてやればいいのか、溜飲の下げかたを検討していて、俺いま、おかしな言葉を聞き流しかけた。口元を覆っていた手が外れる。 「ほんとうに悪かった」  思わず振り仰いだ久原の顔。頭一つ分はでかいはずのやつの顔はそこになく、硬そうにセットされた髪の毛の渦巻きが俺の胸元を向いていた。 「いや、そんな頭下げなくても……」  そういやこいつ中学では野球部だったな、と大げさなお辞儀に慄いて半歩下がる。 「じゃあ……元気で」 「え、ちょ……」  顔を上げた久原はこれで目的は果たしたとばかりに会釈するように頷いて、動揺して硬直した俺を置いて帰りかけた。すれ違う肩は俺の目線の高さ。 (いやいやいや!) 「ちょっと待って!」 「あ?」  自分でも驚くほどの大声とブレザーの背中を掴んだ両手の指先。たたらを踏んだ久原が訝し気に振り返って俺を見下ろす。 「なに?」 「いやなにって……いま、かわいいって……」  そう聞こえた。  かわいいって聞こえた。  心臓が早鐘を打つ。俺の顔も急速に真っ赤に染まる。 「ああ。うん。ほんとうはかわいいって思ったんだ。嬉しそうにおやつ食ってて、でっかい口あけて笑ってて。かわいいなって思ってちょっかいかけたくなった。なのに口走ったのはあんなで……。泣かせたかもと思ったけどそれごまかすみたいにその場逃げて……。――悪かった。クラス同じになるたびに謝ろうと思ってたのにけっきょく今日までできなかった。ずっと気になってた。好きでした」 「え……」  きまり悪げに、独白みたいにしゃべっている間ずっと微妙に視線を逸らされていたのに、最後だけ口調が変わった久原が俺の目をまっすぐに見た。  これはもしかしていってもいいんじゃないだろうか。俺が抱えていた気持ちも伝えていいんじゃないだろうか。 「お、俺も」 「え?」 「俺もずっと気になってたっ。ひどいこといわれて最低だって思って、視界にも入れないようにしてたのに、気にしないようにすればするほど気になって、気がついたら目で追ってたっ」  嫌いなはずなのに、気になってしょうがなくて、考えないようにしようとする時点で考えていて、どうしようもなくイライラして。そんなふうに意識していたら久原がとても素敵な人だと気がついた。いつの間にか好きになっていた。いつの間にか目で追う理由が変化していた。  あんなに嫌いだった久原が好きだった。 「久原のことが好きです」  勢い込んで前のめりになった俺を久原がじっと見下ろしていた。息巻くように告白してしまって恥ずかしい。人生初の告白だ。手が震える。足はガクガクしている。 「え?」  外は春めいて暖かくなってきたけれど陽が当たらないここはけっこう冷える。学校の廊下ってなんでこうも寒いんだろう。三限目終了のチャイムが鳴り響く。卒業式の今日も他学年は通常授業だ。ホームルームが長引いていた友人のクラスももう解散しただろう。下駄箱に靴があるから、俺が帰っていないことは友人にも伝わる。あんまり待たせるのも申し訳ない。 (久原はどうするんだろう。両想い……になったら一緒に帰るんだろうか) 「え、いや」  人見知りをこじらせた俺に恋人がいたことなんてない。このあとについて考えを巡らせる俺に、久原は歯切れが悪い。久原も告白されるのが初めてなのかもしれない。モテそうなのに意外だ。 「あのさ、好きだったっていうか。いや、好きだったんだけど、それって思い込みっていうか、こう洗脳みたいなさ」 「はい?」  またも視線を逸らした久原があいまいに言いよどむ。視線どころか、体も斜めだ。つま先が俺の四十五度度斜めを向いている。 「なんであんなこといったんだろうとか、泣かせたかもとか、罪悪感がすごくて、お前のことずっと頭から離れなくて何年も目で追ってて。で、見てるうちにやっぱかわいいなとか、あ、や、いや。その、好きになってたんだけど、でもそれってマインドコントロールてか思い込みってかさ、そういうのだと思うんだよ」 「……はあ?」  我ながら低い声が出た。鼻がピクピク痙攣する。 「だから好き『でした』……。あーいうつもりなかったんだよ。もう会うことなくなるから、お前が覚えてなくてなにいってんだこいつって思われても一生後悔し続けるより謝ろうって、謝ることしか考えてなくって」 「……」 「だから、悪い……」  ――カッチーン (なにいってんだこいつ) 「最後に話せてよかったよ」 (よかったよ、じゃねーよ。よくねえよ。じゃあ、ってなんだ)  ほろ苦い表情で久原が俺に背を向ける。こんどこそさようなら、青春の一ページみたいに一つの恋が終わった――みたいな顔。なんだそりゃ。グワシッと力いっぱい久原のブレザーの背中を両手で引っ掴んで、さらに上向きに捩じり上げた。 「……っ」 「相原?」 「……んだよそれ」  ブレザーにくっついてズボンから引きずり出されたシャツの裾に悪態を放つ。俺のつぶやきを聞き返すそぶりを見せた久原だけど、こいつやっぱ最低だ。 「好きだったのは気のせいって?」 「ああ、ごめ……」 「じゃあ俺も気のせい。好きだって思ってたのは気のせい気の迷い思い込み。てかやっぱ嫌いだ」  早口だったけど噛まずにいえた。気のせい気の迷い思い込み、気のせい気の迷い思い込み、気のせい気の迷い思い込み、ほなさいなら。  掴んでいたブレザーを離して、今度は俺が久原を追い越した。 「ちょっと待て!」  数歩歩いて昇降口への短い階段の手前で、右ひじを後ろに引かれて転びかけた。 「気の迷いってなんだよ! 気のせいってなんだよ!」 「はあ!? お前がいったんだろ。好きだったのは気のせいって。だから俺も気のせい。本当は好きじゃありませんでした」 「なんだよそれ!」  なんだよそれはこっちの台詞だ。 「謝ってくれてありがとう。それじゃさようなら」  掴まれたひじを左手でペッペと払ってお別れだ。数えること九年。俺は今日限りでこいつのことを考えるのはやめにする。やっぱ大っ嫌いだ。告白も気の迷いだったからノーカウントだ。  荒い鼻息を一つ吐いて気持ちは昇降口へ。そんな俺の足を止めたのは、後ろから聞こえた笑い声だった。階段に差し掛かって半身外にいる俺と校舎の中にいる久原。脇の窓から楽しそうに笑う久原の顔がよく見えた。久原は教室でもよく笑っていた。いつも一緒にいるメンバーともだし、誰とでもよくしゃべるしよく笑う。教室でも部活でも職員室でも、体育祭や修学旅行なんかでも。人の笑顔をぶさいくだっていっておいて、自分はきらっきらの笑顔を振りまく。  俺の視線に気づいて久原が正面を向く。窓越しだけど半身はまだ廊下に残していたんだから、久原の声は俺にちゃんと聞こえた。 「相原がこんなにしゃべったりするの初めて見た。物静かだと思ってたけど、けっこうキャンキャン叫ぶのな。……やっぱかわいいよ、お前」 「~~うるっさい!」  俺も他人に対してこんな感情的になったの初めてだわ!  眦に浮かんだ涙を指先で拭いながら破顔した久原を窓越しに怒鳴りつけて、俺は初恋に背を向けて昇降口に向かった。  待たせてしまった友人と合流したところに久原が追いかけてきて、下駄箱で「友だちから始めてください」とSNSのIDを交換させられたのは次につながる別の話。遠くから眺めているだけの俺の初恋はともかく、高校の卒業式の日に終わったのだ。なお、なにも知らない友人は久原の台詞を冗談だと受け取って笑っていた。 春は別れの季節、門出の季節
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