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 洗面所からリビングに戻ると、少しユーズド感のあるジーンズにブルーのストライプのシャツを着て、袖をまくりながら階段を下りてくる彼が目に入った。 「なつにこれ渡しとく」  と、何か小さい物を投げる仕草をするから身構えると、何か飛んできた。  胸の前で受け取ったそれは、 「かぎ?」 「うちの鍵」 「え……えっ……いいの?」  彼の顔を見ると、驚いてる私が面白いとでもいうように笑っている。 「いいよ」 「あ……ありがとう」 「でも、来る時は連絡して。帰りが遅い時もあるから」 「うん、うん。わかった」  革紐を編んだ輪がついたキーリングについた鍵が私の手の中にある。  このキーリングも彼らしくて、うれしい。 「……ありがとう」  もう一度つぶやいた。 「どういたしまして」  と彼は穏やかな顔で笑った。  さすがに、仕事に手をつないで行くなんてことはしないけど。 「おはようございまーす!」 「おはようございますーって、あらら、同伴かー」  ニヤニヤとするメイクの佐藤さんに、同じような笑顔をして、 「えへへー、たまにはですよー」  と返す。  最近は否定することもなく、大っぴらになった。  ただ、上田さんはそんな私たちの会話を苦笑いして聞いている。 「日向さん、さっさと準備して」  仕事の時は相変わらず『日向さん』って呼ぶけど、上田さんも少し変わったかなと思う。 「はーい、いってきまっす」  と手を振って、つい立てで仕切られたメイクコーナーに入った。 「上田くん、なっちゃんと付き合うようになって、少し明るくなった感じがするなぁ」  と、私にケープをかけて、佐藤さんが言う。  その上田さんは今はカメラ周りの準備をしていて、私たちの話は聞こえない。 「そうですか?」  佐藤さんは上田さんと年が同じだそうだ。  専門学校を出てすぐにこの仕事について、ほぼ同時期に上田さんが大学在学中にカメラマンさんのアシスタントとしてこの仕事を始めたという話を聞いたことがある。  そのままずっと同じ仕事を続けているという話だったから、佐藤さんも上田さんの前の人とのこと、知ってるのかもしれない。 「うん、上田くんちょっと暗いっていうか……おとなしいというか……まあまあ陰キャじゃん」 「陰キャ……」  それはちょっと、強く否定はできない。 「なんか、こう、他人からは一歩引いてるっていうか? 壁を作ってるっていうか? そういうとこあるじゃない」  佐藤さんは私が朝塗ってきた日焼け止めをコットンで手早く落として、肌を整えてベースメイクを作っていく。 「ああ……」 「そういうのが、少しゆるんだ気がするな、最近」 「ふぅーん」 「まあ、若いときにいろいろあったからね。それもしょうがないんだろうけど?」  いやでもまだ若いんだよね、と上田さんと同じ年の佐藤さんはブツブツ言いながら私のメイクを始める。  たくさんの色のアイシャドーが入ったパレットから、ナチュラルなベージュ系の色味のものを筆に取って、私のまぶたに乗せる。  一番濃い色にはワインカラーを選んで私のまぶたを軽く引き上げて色をつけた。  ワインカラーってそれだけで秋らしく見えるな、と鏡に映った自分を見て思う。  自分ではフルメイクはほとんどしないから、誌面に出てる私と普段の私はけっこう違うように思うくらいだ。 「……佐藤さんは、知ってるんですね」 「まあ、わたしの大先輩だし、上田くんともずっと一緒に仕事してるからねー」 「そうですよね……あ、その人、海外の仕事で呼ばれたって話は、ユキさんから聞きました」  その人のことを知らないのは私と同じくらいの子たちくらいな感じで、少し年上の人たちは事情は知らないまでも彼と前の人のことを知っている人が多い。  そして自分はほとんど知らないことが、少しもどかしい。
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