1人が本棚に入れています
本棚に追加
「二人だけのひみつ。だれにも言っちゃだめだよ?」
ぷちゅりと押し付けられた唇の柔らかさも、ゼロ距離で覗き込んだ瞳の鮮やかさも、交換するように交わす吐息のあたたかさも。
七歳になったばかりの僕にはなにもかもが初めてのもので、視線の先で微笑む少女にただ真っ赤に染まった間抜け面を晒すことしか出来なかった。
*****
十二時になった途端、そんなに静かでもなかった空間が一気に騒がしくなる。先月新卒で入社したばかりの会社は今年で六年目とまだまだ若い部類に入るが、働いている人たちはみんな元気で優しい。
仕事中に飛び交う雑談も、立場に関係なく連れ立っていくランチも、部署ごとの仕切りがないオフィスも、何もかもが新鮮で明るくて、配属先も決まっていないぺーぺーのくせにずっとここで働きたいな、と思わせてくれる。
週初めの月曜日はお弁当の日にしていて、僕は持参組の先輩たちと一緒にフリースペースにいた。今日のメニューは玄米ご飯に甘い卵焼き、ほうれん草のお浸しときんぴらごぼうは週末に拵えた作り置きだ。
白身魚の唐揚げは昨日の晩ご飯のときに多めに作っておいて、お弁当用にと冷凍していたものを温めただけ。今朝起きて作ったものは卵焼きだけ、と簡単なものばかりではあるが、社会人なりたてのお弁当としては充分だと自分を褒めてしまった。
カレー風味に味付けた唐揚げは冷めても美味しくて、正面に座った同期の子が涎を垂らす勢いで感嘆してくれる。それに少し嬉しくなりながら、ぼんやりと僕が思い出すのは今日の朝に見た夢のことだった。
数年振りに夢として表れた一場面は、十五年以上前の出来事なのに驚くほどはっきりとした像を結んでいた。まあ、夢に見るまでもなく定期的に思い出していることだから当たり前なのかもしれないが。
長く感じた夏の盛りも過ぎて、街路樹も遠くの山の木々も綺麗な赤や黄色に染まっている時季だ。ぴゅうと吹く風は冷たくて、マフラーをしていない首元を竦めるようにして大好きなお姉ちゃんと手を繋いで歩いていた。
隣の大きな家に住む、二つ年上のゆうちゃん。本当の名前は違うのだが、舌足らずの僕はゆうちゃんとしか発音出来なかった。それでも優しいゆうちゃんはいいよって言ってくれて、僕がゆうちゃんと呼ぶたびにかわいいねって笑ってくれた。
ゆうちゃんのおうちは何代も前からお金持ちだったらしくて、貧乏でも裕福でもない一般家庭の僕とは住む世界が違う。欲しいものはなんでも買ってもらえるだろうゆうちゃんは、だけれど毎日僕と一緒に遊んでくれた。
引っ込み思案で吃音のあった僕は同級生からいつも揶揄われていて、幼稚園でも小学校でも上手く友だちを作ることが出来なかった。いつもゆうちゃんに手を引かれて一歩後ろをついていき、同じくらいの歳の子ともそのお母さんやお父さんともなかなか喋れない。ゆうちゃんがいつも僕の分まで喋ってくれて、そうだよね?って振り向いては僕の意思を確認してくれていた。
だけれど、ゆうちゃんは遠い海の向こうに引っ越してしまった。ゆうちゃんのご両親が亡くなって、アメリカに住む父方の祖父母に預けられることになったのだ。
教えてくれたのはゆうちゃんが引っ越してしまう当日で、もう会えなくなるゆうちゃんに僕は淋しくて心細くて怖くて悲しくて、まるでこの世の終わりを迎えるかのように泣いた。
泣いて、泣いて、泣き喚いて。僕は泣き虫でもあったけれど、赤ちゃんのときよりもきっとたくさん泣いた。あんなに大きな声を出したのは、後にも先にもきっとあのときだけだろう。
抱き留める母親の手を振り払って、迎えの車に乗り込もうとするゆうちゃんの背中に抱き着いた。ゆうちゃんの身長は僕よりも五センチくらいしか高くなかったけれど、ニットセーターを着たゆうちゃんの身体は僕の両腕が回りきるほどに細い。洗い立ての犬みたいに萎んでしまったことに、僕はまた淋しくなって泣いてしまう。
車のドアで大人たちの視線は遮られていた。くるりと身体を反転させたゆうちゃんは僕を抱き締めて、それからちょっとだけ身体を離してから僕にキスをしてくれた。
いつまでも泣き止まない僕に、今にも泣き出してしまいそうな顔で笑いながら、ゆうちゃんは秘密だよ、と言った。温かいものが唇に触れて、おとぎ話で読んだ王子様とお姫様のキスだって気付いて、僕は耳まで真っ赤になっていくのを自覚しながらも頷いた。
吃驚し過ぎて、あれだけ勢いよく泣いていたのにぴたりと涙は止まってしまう。ゆうちゃんも今度はいつもと同じような、だけれど初めて見るような大人びた笑顔を見せてくれる。
僕と、ゆうちゃんだけの秘密。絶対に誰にも言ってはいけない、二人だけの秘め事。
「山田くん、どうかしたの? 体調でも悪い?」
お弁当を半分ほど食べ進めたところでぼんやりと固まった僕に声をかけてくれたのは、隣に座った一つ先輩の女性だった。目の前でひらひらと揺れる手のひらは白くて華奢で、大人になったゆうちゃんもこんな感じなのだろうかと考えてしまう。きっとゆうちゃんの手はきちんとお手入れがされていて、爪もぴかぴかに磨かれているのだろう。
なんでもないです、と首を振る僕に、周りのみんなは向けていた視線を一気に散らす。昔みたいな引っ込み思案で泣き虫な性格はマシになったが、それでも大人しくて口数が少ないことに変わりはない。
たくさんゆうちゃんが助けてくれて、まだ小さくて細い身体で僕のことを守ってくれて、感謝と憧れでいっぱいだった。両親には申し訳ないけれど、幼い頃から僕の大好きな人も尊敬する人もゆうちゃんで埋められている。
僕もゆうちゃんみたいに優しくて、あったかくて、かっこいい人になりたい。ゆうちゃんが引っ越して数日は自分の部屋に引き籠って泣き続けていたが、これじゃあゆうちゃんが悲しむだけだと気が付いた。
再会出来るかどうかは分からないけれど、今度会ったときに胸を張れるくらい、立派な男になろう。今度は僕がゆうちゃんを守れるくらいに強くなろう。
幼いながらにそんなことを心の内で決めて、閉じ籠っていた部屋から出ていくと心配していた両親に泣きながら抱き締められた。何日も泣くだけでご飯は食べないし、学校にも行かない僕を思ってくれている二人に苦しくなってまた少し泣いてしまったけれど、あの日以来自分のことで泣くのは我慢するようになった。
吃音は大人になると出なくなるよと言ってくれたお医者さんの言葉を信じて、揶揄われても逃げ出さないように両足を踏ん張る。他のクラスにも僕と同じように吃音で揶揄われている子がいるかもしれない。その子が泣いてしまわないように、悲しまないように、僕は同学年のガキ大将でもあったクラスの男の子に何度も繰り返し説明した。
最初はいつも泣いていた僕の変わりように驚いていたその子も、諦めないし泣かない僕は面白くないと興味を失くし、揶揄ったり苛めたりすることはなくなった。大丈夫だった?と声をかけてくれるクラスの子も出てきて、緊張しながらもゆうちゃん以外の同世代の子たちとも喋れるようになった。
大人になった今もこうして昼休みの時間を人と共有して、相槌を打ったり自分の話をしたり出来るのは全部ゆうちゃんのおかげだ。ゆうちゃんと再会したときに恥じない自分でいたいと思うから、逃げたり隠れたりせずに人と向き合うことが出来る。
ゆうちゃんには会いたいと思っても、連絡先も分からないから探すことも出来ない。ゆうちゃんはまたね、と言いながらも連絡先は教えてくれず、僕からはゆうちゃんの無事を確認することも出来ないのだ。
ゆうちゃんは、僕にまた会いたいと思ってくれるだろうか。引っ込み思案で、泣き虫で、いつもゆうちゃんの後ろに隠れていた幼い僕。幼稚園や小学校に通うようになってからは家に帰るよりも先にゆうちゃんのおうちのピンポンを鳴らし、帰ってきてなければゆうちゃんんのおうちの玄関で帰りを待っていた。
成長してからあの頃の自分を思い出すと、ゆうちゃんも同じ学校の子と放課後遊んだり、休日に出掛けたりしたかっただろう。それでも優しいゆうちゃんは、僕とばかり遊んでくれた。たくさん遊んでくれたゆうちゃんに、僕はありがとうのひとつも言えていない。
ゆうちゃんが会いたいと思ってくれているのかどうか、それは僕にはさっぱり分からない。ゆうちゃんも望んでくれていたらいいな、とは思うけれど、海外に行って新しいお友だちとも出逢っただろうゆうちゃんが僕を憶えてくれているとは限らない。
どうだろうなぁ、と首を傾げながら、きんぴらごぼうの最後の一口を掬う。お酢と出汁を使った味はさっぱりとしていて、試しに作ってみたけれどこれからの季節に丁度いいかもしれない。
たまたま目についたレシピだったが、いい発見が出来たことに自然と口角が上がる。今度は笑ってる、と同期の子にちょっと引かれてしまったが、きんぴらごぼうの話をすると納得してからレシピを聞いてくれた。
週末に出掛けた話や、この春から付き合っている相手の異動によって遠距離になってしまったことへの愚痴を言い合いながら、一時間の休憩は過ぎていく。あと十五分ほどを残し、みんな食べ終わったお弁当箱やゴミを片付けてお茶の時間になった頃合いで、この場にいる一番の先輩がそうだ、と両手を鳴らした。
「今週のどこか……、まぁそのどこかはまだ決まってないんだけど。社長が戻ってくるからお土産抱えて来社するってさ」
どこか、となんとなく気まずそうに頬を掻く先輩が社長と言った瞬間、隣に座っていた一つ上の先輩ががたりと椅子を鳴らした。
「今週!? び、美容院!!」
先輩の焦りと喜びと驚きが混ぜ合わさった大きな声が、フリースペースに響く。会社が入っているフロアで一番大きいのがこのフリースペースではあるけれど、それでも八人ほどが囲めるテーブルが三つと、壁沿いの一人用のカウンターが一列あるだけ。
上擦った高い声は部屋の中でゆったりと過ごしていたみんなに聞こえて、たったの二言のはずなのにその焦りから内容が伝わってしまった。主に女性社員が一斉にスマホを開いてスケジュールを確認したり、そそくさと化粧直しに向かったりし始める。
一番上の先輩はまだ会社が設立する前から社長と知り合いで、他の会社でデザイナーをしていたところを引き抜かれたらしい。最初からいる社員さんは社長とこの先輩くらいで、本来なら副社長と呼ばれていてもおかしくない。それなのに僕たちみたいな新入社員と肩を並べて仕事をしているのは、本人が役職に就くのを嫌がって平社員に収まっているからだと言われている。
デザイン会社に勤めながらも専門的な知識のない僕は、毎日が勉強で頭の中がこんがらがってしまうこともよくある。そんなときにいち早く助けてくれるのがこの先輩で、気軽に質問させてもらえる今にとても感謝していた。
そんな気安い先輩は、慌てて美容院のネット予約を始めた先輩やいそいそと退室していく周りを見て、申し訳ないように眉尻を下げる。先輩にとって社長は上司というよりお友だちという色の方が強いのだろうが、新入社員の僕からしたら雲の上の人。女性社員にとっては、全力でアピールすべき優良物件なのだ。
前の席で食後のデザートとしてプリンを食べている同期は、喜色を隠しきれない周りに溜息を吐いている。おそらく、彼女は社長を異性として狙っていない唯一の女性社員だろう。
「あー……、言わない方が良かった、かな……?」
一番上の先輩は随分と人の少なくなったフリースペースを見渡して、最後は僕たち二人に目を向ける。落ち着いているのは食にしか興味が湧かないらしい同期と、名前くらいしか知らない存在にどうも実感が薄い僕くらいだ。
「それはそれで、何で言ってくれなかったのって言われそうな気がします……」
だよねぇ、と肩を落とす先輩に、お弁当と一緒に入れていたチョコレートを差し出す。ビニールに包まれた一口サイズのミルクチョコは小さい頃からの好物で、大人になって一人暮らしを始めた今でも買わずにはいられないひとつだ。
音符のマークが描かれたチョコを受け取ってくれた先輩は、休憩時間をあと十分以上も残して僕たち三人だけになってしまった空間に脱力する。いつもはぎりぎりまで騒がしいのに、社長の効果はこんなにも素晴らしいのか。
同期にもチョコをお裾分けして、Yの文字が刻まれたチョコレートを口に運ぶ。舌に置いてからもしばらくは溶けない強情さがなんだか癖になって、ゆうちゃんがおやつに出してくれる高価そうなチョコよりもこれが大好きだった。
「社長って、そんなに人気なんですね」
「ま、顔良しスタイル良し、高学歴に高収入だからなぁ。たまにしか出社してこないのもあって、夢見てる女の子が多いんだろ」
椅子の背凭れにぐったりとへばりつき、お礼を告げてくれてからビニールを解く。クリーム色に近い照明が薄茶色のチョコレートを照らし、先輩は疲れたようにじっとその色を見つめた。
「仕事仲間としては最高だけど、恋人としてのあいつねぇ……。俺みたいなおじさんにはさっぱりだなぁ……」
遠い目をしてぽつりぽつりと告げる先輩に、無心でプリンを食べていた同期もそっと視線を向ける。それくらいに辟易とした言い方をしていて、プライベートだとそんなにも評価が下がるのだろうかと不思議に思った。
立花結依。文字だけを見ると女性のように思えるが、れっきとした二十五歳の男性だ。
海外に住んでいた十代の頃に友人とアプリ開発の会社を興し、自身は二十歳で大学を卒業。それ以降は日本に戻ってこの会社を立ち上げ、日米間を行き来している。先輩の話ではこちらの会社に専念したいだとか、向こうの会社は友人に譲るだとかで、今はその引き継ぎや後処理に追われて休む暇もないらしい。
二月頃からアメリカに渡って向こうの仕事をしていた社長と、四月に入社した僕たちはまだ顔合わせも済んでいない。入社式には間に合わせようとしていたみたいなのだが、何かトラブルが起こってなかなか帰国出来ないのだと教えられた。
まだまだ若い会社でメディア露出が少ないのと、海外との行き来で忙しさを極めてイベントごとにもほとんど参加出来ていないせいで、僕たちは社長の顔も知らない。名前と、性別と、年齢と。たったの二歳しか違わないのにすごいなぁ、と尊敬の念ばかりが膨れ上がって、僕の中では立派に雲の上の人となった。
今週には挨拶が出来るのか、と思うと無意識の末に背筋が伸びる。勝手に緊張している僕と、マイペースにプリンの最後の一口を掬っている同期と。先輩は全く違う僕たちを見比べて、呆れたように笑ってからようやくチョコレートをビニールから持ち上げる。
あと数センチで口元に届くというタイミング、先輩の口の中はチョコレートの甘さが広がっていただろうその瞬間。
大きく口を開いていた先輩の二本の指の隙間から、小さなチョコレートを奪っていく手があった。
勿論それは先輩の隣に座っている同期ではなく、反対隣のもっと高い位置からだ。奪われたことに気付かないセンパイは勢い余って指を咥えてしまい、喉の奥にこもったような低い唸り声を捻り出した。
僕はぱちぱちと音が鳴りそうなほどの強さで瞬き、同期とは反対側の、すなわち出入り口に近い側の隣を見上げる。ぐっと傾けた首の後ろが痛い。
僕が座っているからとは言え、立っているその人の身長は随分と高いように見える。余裕で百八十は超えているだろう。小さなチョコレートを左手の二本で摘まみ、何故か僕の方へにこりと笑いかけるその男性は、同性の僕から見ても格好良いと呆けてしまうような顔立ちをしていた。
ミルクチョコレートよりも僅かに薄いブラウンの髪の毛を後ろに撫で付け、グレンチェックのスリーピーススーツをそつなく着こなしている。きりっと持ち上がった太めの眉も、色素の薄い亜麻色の瞳も、色気のある肉厚な唇も、どこか異国人のような雰囲気を醸していた。
「おい、それは俺がもらったやつなんだけど?」
「ん? 何か言った?」
恨めしそうな先輩の視線にもどこ吹く風、と微笑む正体不明の男性に、僕も同期もただ見上げるしか出来ない。プラスチック製のスプーンで掬っていた最後のプリンが、無情にもテーブルにぼたりと落ちる。
「ああ、そうか。二人は顔も知らねぇか。うちの社長様、立花だよ」
有無を言わせない姿勢に先輩は肩を竦め、その反応を見届けた男性は小さなチョコレートを口に入れる。僅かに覗いた舌の赤さと歯の白さに、僕はどうしてか分からないけれど釘付けになってしまった。
初めて見る男性の顔に、だけれどどこかで見掛けたような既視感を覚えてしまう。こんなに格好良い人は芸能人にでもいそうだと思ったが、生憎と僕はあまりテレビを見る習慣がない。
誰だろうか、と考えている間に、先輩が何かを喋っている。ぼんやりと見上げていたせいで聞き逃しそうになってしまったが、もしかして先輩はこの人を社長、と言ったんじゃないだろうか。
「……、えっ?」
「山田君と、甘崎さんだよね。遅くなって申し訳ない。初めまして、立花結依です」
僕も、同期の甘崎さんも、ただ精いっぱいに目を開けて見つめる。苗字に使われるにしては珍しい甘崎さんの名前も間違わずに呼んだし、先輩も呆れたようなジト目になりつつもそう紹介したし、立花社長本人なのだろう。
女性社員に人気なのは、初出勤のその日に分かっていたことだ。だけれど見たことのない僕や甘崎さんはその人気っぷりにへぇ、と他人事のような相槌を返すくらいしか出来なかったが、これはまぁ、うん。みんな好きになってしまうのも分かる気がする。
百七十センチにかろうじて届かなかった、平々凡々な顔の僕からしたら、比べるのも烏滸がましくなるくらいの格好良さだ。今まで社長の話題が出ても一切の興味を示さなかった甘崎さんでさえ、頬を染めて視線を逸らせなくなっているのも頷けてしまう。
「ほれ、お前ら。見惚れてないで挨拶しろ~」
ぱんぱんと軽い拍子にようやく僕たちは我に返り、がたがたと立ち上がって頭を下げる。にこにこと楽しそうに、嬉しそうに微笑んでいる社長はそんな僕たちに顔を上げるように言ってくれて、ゆっくりとそれぞれに視線を合わせてくれた。
「君たちの入社式に間に合わなくてごめんね。これからはずっと日本にいられるだろうから、何かあれば気負わずに何でも話してほしい」
「お、ちゃんと引き渡し出来たんだな」
「立ち上げに参加したってだけで、俺は何もしてないからね。長引いたのはチャールズの別れ話が拗れて巻き込まれたせいだよ」
何気なく交わされる二人の会話に、そんなこともあるんだなと遠い世界の話を聞いているような心地になる。きっと誰にでも頼られる、優しくて面倒見の良い人なんだろうな。
ふっ、と。長身で人目を集めるだろう美丈夫に、小さな子どもの姿が重なる。ひみつだよ、と微笑む幼い少女と彼は似ていないはずなのに、どうしてだかダブった姿を引き剥がすことが出来ない。
色素の薄いあの亜麻色は、陽かりに照らされたらどんな色に光るのだろうか。少女の湛えていた蜂蜜のように眩しい色になるような気がして、想像するようにそっと瞳を細めた。
「……どうかした?」
少女の長い髪の毛が風に舞って、押さえる手は白くて細くて綺麗だった。大きくは変わらない身長差で見上げた少女は、この隙の無い男前と似ていないはずなのに、重なった姿が薄れていくことはない。
じっと見つめていると視線に気付いた社長が、微かに困ったような雰囲気を混ぜて僕を見る。身長差のせいで影になったその瞳に光は入らないけれど、テーブルの白に反射してきらりと水晶体が輝きを帯びた。
何色にも見えるような、彩り豊かな丸い瞳。それはあの最後の日に見たゆうちゃんの瞳と同じで、あんぐりとまぁるく開いた口が塞がらない。
「山田? どうかしたか?」
座ったままの先輩が下から覗き込んできていて、正面の同期も小首を傾げて僕を見ていた。三対の瞳に見られていて、普段の僕なら注目されたことに驚いてすぐに何か当たり障りのないことを言っているはずだ。
だけれどそんなことは出来なくて、二人の様子は視界の端に捉えるだけ。じっと見つめているのは少女の姿が被った社長だけで、まるで時間が止まってしまったかのようだ。
「二人は先に戻っていてくれる? あ、人払いもお願い」
顎先に指先を当てて何かを考えていた社長は、僕に向けていた視線を同じ側にいる二人に移し、出やすいようにそっと身体をずらした。先輩は僕と社長を見比べて何か言いたそうにしていたが、社長の圧に負けて溜息だけを残して同期と二人退出していく。
お昼休み中はみんなが自由に使える憩いの場所だが、会議室では収まらないような大人数でのミーティングにはここが使われる。だからこそのフリースペースという呼ばれ方なのだが、鍵を閉められるのは部長以上の人だけだ。
先輩は固辞して役職についていないはずだけれど、二人が退室してすぐにがちゃりと鍵の閉まる音が響く。鍵は一括保管していると聞いていたのに、どうしてこんなに早く鍵の音がするのだろうか。考えてしまいそうになって、だけれど考えちゃいけないと首を振った。
「で、山田君はどうかしたの?」
無言で見つめ続ける不躾な態度にも困った風を装いながら許してくれる立花社長は優しくて、僕は体に沿って垂らしていた両の手のひらをぐっと握り締める。
舌足らずできちんと呼べなかったゆうちゃんの本当の名前は、ゆいちゃんだ。どういう漢字を宛がうのか、結局両親に確かめたことはないが、そうか。結依と書くのか。
「ゆうちゃん」
少女にしか見えなかったから、ずっと女の子だと思っていた。ゆうちゃんがどう感じていたのかはまたあとで確かめてみないと分からないが、嫌な思いをさせてしまっていたのなら申し訳ない。
大人になって、ゆうちゃんと再会出来た。こんな形で再会出来るとは思っていなかったし、格好良くなったゆうちゃんは僕のことなんて憶えていないかもしれない。それでもこうしてまた会えたのだから、またゆうちゃんとたくさんおしゃべりしたい。
ありがとうも伝えたいし、負担を掛けてごめんなさいと謝りたい。吃音の出なくなった僕はある程度みんなと喋れるようになったし、もうゆうちゃんの背中に隠れて守ってもらうだけの僕ではない。
男の子だったゆうちゃんは僕よりも身長は高いし、きっと筋肉もうんとついている。僕が守るまでもない大人の男の人だけれど、ゆうちゃんを守れるように、今度は僕が助けられるように頑張ったんだよ。ずっとずっと、ありがとう。
伝えたいことはたくさんあるのに、あと数分もすれば昼休憩も終わって午後の仕事が始まってしまう。残り少ない時間で何を先に言えばいいのかと迷ってしまうが、まず始めは感謝の言葉を伝えてしまいたい。
そんなことを悩みつつじっと見つめているけれど、ぱちりと瞬いたゆうちゃんからは何も返ってこない。あれ、と僕もさっきの同期の真似をするように小首を傾げてみたけれど、憶えていない以外の可能性もあることに気が付いてしまった。
立花社長とゆうちゃんが重なって見えてしまうのは僕の幻覚で、実際は全く別の人物だということだ。ゆうちゃんは実は男の子なんかじゃなく、本当に女の子だという可能性なんていくらである。
「あ、あっ、ああ、あ、」
間違えた、と思って謝ろうとしたら、焦り過ぎてしまっているのか、出なくなったはずの吃音が出てしまう。母音だけをずっと繰り返す僕に、呆然としている立花社長。焦った思考ではどう修正すればいいかも分からなくなって、上げていた視線はどんどんと足元に下がっていく。
鼻の奥がつんと痛くて、まだぴかぴかの黒い革靴がぼやけて滲んでいく。ああ、このままだと泣いてしまう。あと半年もしない内に二十三歳になる大人が、仕事先で無様にも泣いてしまう。
そう思っても瞳の奥は熱くなるだけで、ぎゅっと握った手のひらに爪先を立てる。どうしよう、そう思っても涙は引いてくれそうになくて、それが余計に口惜しくて涙を誘う。
あと一秒もすれば雫が落ちてしまう。そう思った矢先に、滲んだ視界に革靴の先っぽがもう二つ増えた。
「大ちゃん……!」
母親ももう随分前にしなくなった懐かしい呼び方に、揺れた身体が僕の瞳から雫を落とそうとする。だけれど、その雫は地面へと落ちていく前にグレンチェックのスーツに吸い込まれていった。
抱き締められている、と実感したのは、それからどれくらい後になるだろうか。ぎゅっと力強く抱き締められて、息が苦しくなってからようやくじたばたと逃れるように暴れる。僕の動きが余程切羽詰まっていたのか、すぐに全身を押さえる力は弱まったが、今度は握り締めていた両手のひらを包まれてしまった。
「憶えていて、くれたんだね」
「も、もちろん! ご、ごめんね。あのときはゆうちゃんが男の子だなんて知らなくて……」
「女の子に見えるようにしていたのは俺だよ。大ちゃんは何も悪くない」
僕を見下ろしてくる一対の瞳は、反射の光さえ映していないのにきらきらと光って見える。それが滲む涙のせいだと気付いたのは、恥ずかしながら家に帰ってからだった。
抱き締められたときの力強さや、両手を包む手のひらの熱さで、ゆうちゃんも僕とまた会うことを望んでいてくれたのだと分かる。ゆうちゃんがもう会いたくないと、僕なんて最初から好きじゃなかったんだと言われたらどうしようかと思ったけれど、ゆうちゃんの変わらない優しい微笑みにそんなことは杞憂だったと知った。
ゆうちゃんと再会して、またこうして言葉を交わしている。そのことが何よりも嬉しくて、たくさんしゃべりたいことはあったはずなのに、言葉が何ひとつ出ていかない。
ただ何も言わずに涙を浮かべたままにこにことしている僕に、ゆうちゃんも端正な顔を綻ばしてくれている。嬉しくて、幸せで、ここがどこなのかも忘れてしまいそうになった。
もっと一緒にいたいけど、きっともう昼休憩の時間が終わってしまう。そう告げようと軽く開けた唇に、何か温かくて柔らかいものが触れた。
えっと驚きに見開いた視界で、長い睫毛に縁取られた瞳がゼロ距離に映る。色素の薄い瞳が同じように僕を見つめていて、ああまたキスされたんだ、と分かった。
分かった、けど、なんで。
柔らかな感触が遠ざかっていくたびに頬が、耳が、首元が。赤く色付いていくのが見なくても分かった。
「俺たちだけの秘密。誰にも言っちゃいけないよ?」
にこりと嬉しそうに、幸せそうに微笑むゆうちゃんに、僕はまた間抜け面を晒してただ頷くしか出来なかった。
最初のコメントを投稿しよう!