7.望んでも

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7.望んでも

「あなたの知るその方では、私はありませんから、その方の気持ちは私にはわかりません。ただ、道隆さまと離れることとなったその方はきっと、とてもとてもお寂しかったでしょうね」  さわり、と窓から吹き込む風に、千代の重く作られた前髪が揺れる。ぼやけた視界ではあったが、道隆にもそこにあるものがはっきりと見えた。  一文字に刻まれた、赤黒くひきつれたような三寸ほどの古い傷跡が。 ──道隆さまは、私のこの傷を見ても、傷ものと蔑まれなかったばかりか……癒そうと手で触れてくださった。私はそれが嬉しくて。だから、ついていこうと決めたのです。  まだ赤子だった千鶴子の額にその傷を刻んだのは、彼女の乳母だったという。  千鶴子の本当の母親であった乳母は、自分の子を取り上げられまいと思うあまり、幼い我が子の額をかんざしで裂いたそうだ。  傷ものになれば……子がいない侯爵家とはいえ、子どもを取り上げはしまい、そう思った果ての凶行だった。  しかし乳母の目論見は外れ、乳母自身は解雇され、千鶴子は侯爵家に残された。  一生消えぬ傷跡を額に刻まれたまま。  千鶴子さま、と名を呼ぼうとした。だが、その道隆に向かい、千代は首を振った。 「その方の幸せは道隆さまと共にあることだったと私は思います。誰かの幸せを祈れる道隆さまを心の底からお慕いし、ずっと手を握っていたいと思い続けておられたはずですから──もっとも」  千代の手がすうっと道隆の唇から離れる。彼女は乱れた前髪を丁寧に戻してから、身を翻し、一度開けた窓を閉める。 「あまりにも遅すぎますけれどもね。それほどに恋い慕うならば、家のしがらみなどなにもかもをもっと早く打ち捨てて、駆けつければよかったと……後悔もなさっているはずです」 「君、は」  耐え切れず、床へと足を下ろし、彼女の元へ歩み寄ろうとする。なのに、長年床についていたゆえに思うように体が動かない。ふらつく体を千代が抱き留めた。 「私は千代です。道隆さま。千鶴子ではない。だから……申し訳なさを感じる必要もないのです」 「いや! だが、君は……」  言いかけた道隆の前ですうっと千代が視線を壁に向ける。  彼女の視線の先、そこには、四月一日、と書かれためくり暦があった。 「今日はまだ、四月一日です。四月馬鹿の日。家も、未来も、なにもかもどうでもよくなる日です」  めくられぬまま、時を止めた、四月一日がそこにはあった。 「四月一日である限り、私はただの千代で……道隆さまの妻です」  妻です。  深く、決意の滲んだ声だった。その声を聞いたとたん、我慢ができなくなった。 「馬鹿だ、本当に、あなたは」  腕を伸ばし、道隆は千代の肩を抱きしめる。  彼女がどんな道のりを歩んでここまで来たのか、道隆には想像もできない。ただ、確かなのは、彼女を覆う香りが、あの頃、彼女が纏っていた上品な香のものではない、こざっぱりとした石鹸の香りである、ということであり、その香りを望んだのが彼女自身だ、ということだ。 ──あなたはあなたがほしいと思うものをほしいと願っていいのですよ、道隆さま。  自分の未来が、海の波間から見た漁港の灯よりもなお遠いと知って、絶望によって目の前に帳を下ろされたあの日。  一生繋いで歩きたいと願った女性の手を、離すしかないと悟ったあの日。  彼女が言ったあの言葉が……道隆の耳を震わせる。 「僕は、望んで、いいだろうか。まだ、望んでいいだろうか。君を」  応える声はなかった。ただ、道隆の肩を包む腕に、密やかに、しかし、決して離れぬと言う意思を思わせる力がこめられるのを、道隆は感じていた。
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