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4.戯れでも
「え……」
耳にした言葉が理解できなかった道隆の唇から、間の抜けた声が落ちる。千代はうっすらと微笑み、道隆の腕に手を伸ばした。慣れた手つきで、するり、するりと汚れた包帯を解く。
「妻ですから、あなたの体に触れることは気味の悪いことではございません。道隆さまがお気に病む必要もまた、ありません」
「すまない……あの」
この部屋に入って五年。誰かと言葉を交わすことも少なく、ゆえに心が波打つこともまたほぼなかった。
だから、忘れていた。これほどに心臓が速く動くものだったのだということを。
動揺し、俯くしかできずにいる道隆の腕の包帯を、千代は無言で取り替えていたが、替え終わったところでひっそりと頭を下げた。
「申し訳ありません。戯れを申しました。そう申し上げれば……道隆さまのお心が安らかになられるかと。不相応なことを申し上げ、誠に申し訳ありません」
「違う……。そんな、ことは、ない」
そうではない。
道隆は必死に肩で呼吸をし、自身の心の内を探る。
妻だと彼女が言ってくれた刹那、心に走った甘い痺れに眩暈がした。
「僕はこの先、妻を娶ることはきっとないだろうから。こんな心持ちになるのかと思ったらとても嬉しくて」
戯れでも、その気持ちを味わわせてくれた千代に、そして四月一日に感謝し、道隆は目を潤ませた。
「ありがとう、千代さん」
千代はこちらを見ていない。枕元に備え付けられた金属製の洗面器で手を洗っている。その千代の動きがふと止まった。
「千代」
水滴を手拭いで丹念に拭いながら彼女が言う。瞠目し、彼女を見上げた道隆に向かい、千代はささやかに口許を綻ばせた。
「今日は妻ですから。千代、とお呼びくださいませ」
これ以上ないほどに心臓が早鐘を打つ。
呼吸を整えようとする道隆を気遣ってか、千代の手が遠慮がちに道隆の背中をさする。その手に押されるようにして、道隆は声を発した。
「千代」
道隆が呼び捨てたとたん、千代の目がふうっと見開かれた。次いで、彼女の顔に浮かんだのは笑顔。
窓の外、春になるたびに野原を黄金に染め、道隆の目を癒してくれていた、ハハコグサのようなつつましく、柔らかい笑顔だった。
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