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5.記憶
たった一日の夢だと思っていた。だが、千代はその日以来、めくり暦をめくらなくなった。
「千代さん」
そう呼ぶと、彼女は柔らかい声で、千代です、と訂正した。
「暦はまだ、四月一日です。ですから私は道隆さまの妻です」
彼女は決まってそう言い、野の花のようなあの笑顔で微笑んでくれた。
申し訳なさは変わらずにあった。しかし……それでも、彼女がそう言ってくれるたび、涙が出た。
「寝巻をお取替えしたいのですが、よろしいですか?」
四月一日が一週間続いたある日、千代に問いかけられ、道隆は小刻みに頷く。いつも通り涼やかに微笑んだ千代は、道隆の寝巻に指をかけた。
「すまない。妻、なんて言ってくれたとしても……やはり、気持ち悪いものだと思う……」
自分でも触れることを厭うただれた肌にも、千代は躊躇なく触れる。清潔な布で丁寧に肌を拭う千代に道隆は再度謝罪を零す。今度も返事をしない千代に不安になり、そろそろと彼女の顔を窺うと、たとえ、と千代が囁いた。
「たとえ感染る病だとしても、私は構わないと思っております」
「……は?」
驚きのあまり声が跳ね上がってしまう。しかし彼女は道隆の動揺とは対局の凪いだ表情のまま、道隆の身体を拭いた布をたらいですすいでいる。
「今、あなたが私の手を必要としてくれる。そのことだけが私にとっては重要なことですから」
「君は……どうしてそんな風に思う? そのことだけが重要なんてことは……ないだろう。君にだって家族もいるだろう。もしも君が病に倒れたら哀しむ人もいるはずだ」
「それは、あなたもそうですよ。道隆さま」
いつもよりも険しい声が返ってきて、道隆は口を噤む。千代は手慣れた様子で道隆に寝巻を着せかけ、帯をするりと結んだ。
「旦那様も、奥様も、道隆さまのことを心配されておいでです。笑っていていただきたいとお考えなのです。あなたがうなだれて過ごされることを、望んでなんておられないのですよ」
そして、と千代が静かに付け足す。その言葉に道隆は息を止めた。
「私もそうです。道隆さまに、ずっとずっと笑っていていただきたいのです。何者にも、あなたさまご自身にも阻まれることなく」
──何者にも阻まれることなく、笑う権利が私たちにはあります。
──あなたはあなたがほしいと思うものをほしいと願っていいのですよ、道隆さま。
昔、そう言ってくれた人が、いた。
道隆がこの病を得てしまってすぐ。まだ子どもで……自分にのしかかって来た現実に心が追いついていなかったころ。
周囲から遠巻きにされるようになったことで漠然と、自分は忌避される存在になったのだ、と感じ、身を縮めるようにこの部屋に引きこもり始めたころ。
その誰かは言った。
──どんなことになったとしても、私は、道隆さまの妻になります。
そう言った人の髪に刺されたかんざしに施された、黄色い小花の飾りが記憶の中、揺れる。
あまり笑顔の多い人ではなかった。
道隆より三つ年上で。直接会って会話をしたのはほんの数度だったけれど、顔を合わせたときはいつも、背中に若木が入ってるいのではないか、と思わせるくらい、まっすぐ背筋を伸ばして歩いていた。
落ち着いた話し方をする人で。
でも、それはもう……五年以上前で。顔もおぼろげで。
「昔……いたんだ。そう言ってくれた人が」
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