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6.千鶴子
空気を換えようと思ったのだろうか。千代が両開きの窓を押し開ける。その彼女の背中を見つめながら、道隆は遠くに霞む誰かの面影を辿って言葉を紡ぐ。
「その人は僕の許嫁で……けれど、僕がこの病になったときに、婚約は解消になったんだ。その人の家は……爵位がこの家より上だったから、もともと婚約には乗り気じゃなくて。僕の病気のことがわかってすぐ、破談になった。仕方ないことなんだ。恋とか愛とか、そういう感情があって繋がっていくものじゃないから。家なんて。だから……ずっと忘れていたんだよ。忘れるべきだって思っていたから」
そうだ。忘れる方がいいと思っていたのだ。
なのに。
道隆の背中を気遣わしげに撫でた手の感触。
躊躇なく、唇に触れてくれた指。
こちらだけをまっすぐに見つめてくれる、瞳。
それは。
「千代、さん……あなたは、千鶴子さまですか?」
千代は答えない。道隆は包帯に包まれた指を伸ばしかけ、思い直し、指を拳の中へ握り込む。
「いや、すまない。そんなわけは、ないのに。なんだか君の手は……あの人にとても似ていて、懐かしくて」
触れられて嬉しかった記憶までも、呼び覚ます。
息を吐き、道隆は額を押さえてうなだれた。
「でも、僕はもう、千鶴子さまに会うことはできない。僕は終わりに魅入られて逃げることができなくなった者だ。元からふさわしくはなかったけれど、今は昔以上だ。家など関係なく、どこまでも歩いていける強さを持っていたあの人を、僕などのそばにとどめ置くことは、あってはならない」
ここにいるのは、千代だ。千鶴子じゃない。それでも言わずにいられず、道隆は俯いたまま、膝の上で拳を握りしめ続ける。
「幸せになっていてほしいんだ。あの人には。幸せの中で、笑っていてほしい。ずっと。だから」
ここにはいちゃいけない。そう言葉を漏らすや否や、千代が振り返った。振り向きざま、道隆の唇を千代の手が押さえる。
千代の目は、かすかに潤んでいた。
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