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私たちの間にだけ、というよりは私の中で勝手に騒動になっていたあの出来事から1週間。なんとなくモヤモヤしながらも、真面目に練習しないわけにはいかないのでちゃんと練習をした。
テニスも大事だが、クラスの行事も忘れてはならない。クラス対抗合唱コンクールに向けて、クラスが一丸となり始める時期だ。こういうイベントはどうしても、気合いを入れてしまう質だ。友達のミナミとアヤカも張り切っていた。アヤカは小学校、ミナミは中学校の時からの友達だ。
私たちの学年はピアノが弾ける人が少ない。それでもクラスに一人くらいはピアノが弾ける人が振り分けられている。でも、クラス替えの時点では緊急事態までは予測できない。去年、私のクラスで伴奏をやったミナミがバスケの試合で腕を骨折した。当然今年もミナミがやるものだと思っていたクラスは大混乱だ。
「果音って小学校の時、合唱祭で伴奏やってたよね?」
アヤカが私に振った。確かに私は小学校の時はピアノを習っていた。中学校に入ってテニスが忙しくなってきっぱりやめてしまったけれど。
「え、無理だよ。最後に弾いたの小学校の時で、もう4年以上弾いてないもん」
「なんで?ミナミはバスケ部だけど、去年は伴奏やってくれたじゃん。ミナミが怪我した時くらい協力しなよ。テニス部ってバスケ部に比べたら忙しくないでしょ?」
違う。忙しいからじゃなくて、本当に実力的に弾けないからなのに。人のことは言えないが、アヤカは口調がきついところがある。アヤカにまくし立てられると何も言えなくなってしまう。
「果音って昔からそうだよね。中学の時からみんなに推薦されても学級委員とか絶対にやらないじゃん。この間の生徒会選挙だって、みんな果音のこと推してたのに、結局生徒会入らなかったでしょ?結局めんどくさいだけじゃん。そういう自己中なの良くないよ。大体果音はさ・・・・・・」
「俺、立候補しまーす」
アヤカの発言を遮るように、後ろの方の席の響也が手を挙げた。
「果音が最後に弾いたの小学校の時だったら今ヘタクソなんじゃね?それだったらたぶん果音より俺の方がマシだわ」
「うっそー!響也ってピアノ弾けるの?」
アヤカが驚く。私も知らなかった。
「趣味程度だけどな。たまに、家で弾いてる。中学の時に伴奏やった」
不穏な空気が流れていたクラスが、響也に注目している。一瞬で空気を変えてくれた。
「本番トチっても殴んないでくれよなぁ。女子は殴り返せないんで」
「あたしそこまで暴力的じゃないんだけど!」
アヤカが大きな声でムキになって反論する。何人かが噴き出した。張りつめた空気が緩み、当のアヤカもついに苦笑し始める。
「せっかくの楽しいイベントなんだし、喧嘩とかなしで平和に行こうぜ」
響也が、助け船を出してくれた。
放課後、部活に行く前またまた教室で二人きりになり、響也に話しかけられた。
「よっ。元気か」
「あんまり元気じゃない」
「だよなあ。まあ、あんまり気を落とすなって。ほら、部活行こうぜ」
「さっきはありがとね。ちょっと今日は休みたいかな」
頭の中で、音楽の時間の出来事がぐるぐるしていた。誰かが持ってきたパンジーの花が教室の窓辺で揺れていた。
「えー、果音いないと楽しくないじゃん。みんなも心配するって。テニス部の士気は果音にかかってるんだぞ」
「そんなことないよ、全部中途半端でみんなに迷惑かけてるし、アヤカにも嫌われちゃったし」
「いやいや、アヤカはそこまで言ってないって!アヤカは合唱コンクール勝ちたいからつい言い方きつくなっただけで、本当はちゃんと果音のこと好きだって!」
「それに、もしかしたら私も1年の時の合唱コンクールで熱くなって誰かのこと傷つけたかもしれない」
人は自分がやられるまで他人の痛みが分からないものだ。もしかしたら、自分でも気づいていないうちに自分もきつい物言いで誰かを傷つけていたのかもしれない。自分のことが恥ずかしくなった。涙がこぼれた。
「いやいやいや、ここで泣かれたら俺が泣かしたみたいになるから!ちょっと落ち着いて!」
「ごめん・・・・・・友だちとあんまり喧嘩したことないから、どうしたらいいか分からない」
今までうまくやってきたつもりだった。間違いなく友だちには恵まれていた方で、アヤカはいい子だから、今回の件は私が悪い。人間関係に悩むことはなかったから、こうして弱音を吐くのも今回が初めてで、感情が抑えきれない。軽い相談は今まで何度もしてきたけれど、こんなに重いことを本当は言いたくなかった。
「あー、まあ確かにつらいよな。でも、時間が解決してくれるって。合唱コンの練習始まったら、アヤカ一人じゃ仕切れないだろうからさ、果音は自分のできることやればいいって。少なくとも俺は果音の味方だしさ」
響也が大きな手を私の肩に置いた。その手はとても温かくて、落ち着く。
「みんな果音が好きだから一緒にいるんだって。果音の言い方きついとか感じたことないし、果音は優しいからそんなに思い詰めることねえよ。むしろ責任感強すぎるから、ちょっとは肩の力抜けって。俺はちゃんと果音ががんばってること知ってるからさ」
響也は優しい。言葉も行動も全部優しい。だから、みんなに好かれるんだと思う。
「って言っても、難しいよな人生って。世界はままならないなあ。ほんと、人生とか世界って何なんだろうな」
響也が唐突にスケールの大きな話をし始めた。私は苦笑いしつつ答える。
「人生はさすがに大袈裟……。そんなの先生だってわかってないよ、たぶん」
「あ、笑った」
響也と目が合う。優しいまなざしが向けられていた。きっと、私を笑わせるためにわざと突拍子もない話をしてくれたのだろう。私はそのおかげでとても安心できた。全部どうにかなる、根拠はないけれどそう思えた。
「ごめん、ありがとう。ちょっと落ち着いた。部活やっぱり行くよ」
「みんな心配するだろうから一応顔洗ってからいけよ・・・・・・ってやべっ!完全に遅刻だ!」
私が急いで顔を洗っている間も、響也は待ってくれていて、二人でテニスコートまで全速力でダッシュした。
翌日、学校に行くとアヤカとミナミに謝られた。
「果音ごめんね。ちょっと、熱くなっちゃって」
「大丈夫。私もごめんね」
「響也に言われたんだ。果音に対して言い方きつすぎるって」
「ごめんね。そもそも私が怪我しなければ良かったよね」
「いやいや、不可抗力でしょ」
「私も、響也くんに忙しいのにごめんねって言いに行ったんだ。そしたら、俺はいいから果音のこと気遣ってやれって言われて」
時間が解決してくれると響也は言っていたけど、解決してくれたのは時間じゃなくて響也だった。お礼を言おうとしたけれど、昼休みに響也は教室にいなくて部室に探しに行くと、一人で教科書とノートを広げながらお弁当を食べていた。
「アヤカたちから聞いた。ありがとう」
「ああ、じゃあ仲直りできたんだ。よかったじゃん」
「うん。響也のおかげ。ありがとう。ところで、今日みんなは?集まる日だったっけ?」
「いや、宿題片付けたくてさ。家帰ったら伴奏の練習しないといけないし。だからって、教室だと集中できないし、みんなが遊んでるのに勉強してたら周りに気を遣わせちゃうだろ」
「響也も忙しいのにごめん」
「じゃあ、代わりにっていうのも変な話だけど、練習付き合ってくれる?歌ってくれる方が伴奏の練習しやすい」
「私でいいの?」
「果音って歌うまかったじゃん。この間テニス部のみんなでカラオケ行ったけど、果音が一番うまかった」
響也の方が上手だったはずだけど、その響也が上手だと言ってくれるのなら自信が持てる。今日はスクールも部活もない。私たちは放課後、音楽室に行った。
響也の指がグランドピアノの鍵盤をなぞる。昨日私の心を救ってくれた大きな手をまじまじと見つめると、それは確かに男の子の手だった。骨張った手は日に焼けてはいるけれど、顔と同じく男子にしては綺麗な肌をしていると思った。
力強い音が鳴る。ピアノ弾くって本当だったんだ、と当たり前のことを思った。上手、綺麗、素敵、頭の中に言葉がしゃぼん玉のように現れては消えた。プロ並みというわけではないけれど、私は響也の音が好きだと思った。十七歳の私のつたない語彙力では、この音を表すには陳腐過ぎると思った。
ピアノを弾く響也の真剣な眼差しをかっこいいと思った。男子にしては睫毛が長いことに気づいた。この間、響也は1年生の女子に告白されたと聞いた。こんなにも絵になる人を好きになるのは当たり前だと思った。今ならその子の気持ちが痛いほどよく分かる。
BPMは120。私の心臓の鼓動が、メトロノームのようにそのリズムを刻んだ。指先が熱くなって痺れて、感覚がなくなった。夏合宿で練習しすぎてオーバーヒートしたときのように、体が熱くなった。ふわふわした足下の感覚。自分の体が自分のものではなくなったように感じた。二人だけの音楽室を、どこかの異世界のように感じていた。このまま二人で一枚の絵になりたかった。
いつ頃からだろう。響也の特別になることが嬉しかったのは。響也の褒め言葉が他の人からの賞賛と違うと感じたのは。響也を失うことが怖くなったのは。響也と離れてしまうかもしれないという大きな出来事の前に霞んでしまってはいたけれど、本当は響也に好きな人がいるという事実が嫌だった。今更気づいた。
響也のことが好きだ。私は響也に恋をした。
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