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ある春の日、裏口のそばで冷たい水で洗濯をするナデシカの手を、少年がそっと握った。
「こんなに冷たい水じゃ、君の手が痛いだろう」
ナデシカは、何も言わずに少年の手を退け洗濯を続ける。少年は、それを阻止するようにタライをひっくり返し、近くの蛇口から生ぬるい水を汲んできた。そして、当たり前のように洗濯を手伝い始め、ナデシカがしびれを切らす頃には、洗濯が終わっていた。
「どうして優しくするの」
ナデシカは、小さな嬉しさを紛らわすように笑わない。それなのに、少年はむしろ嬉しそうにして答えた。
「君は日ごと痩せていくけれど、前よりずっと幸せそうだ。だから、君の幸せが少しでも長く続くように手伝いたいんだ」
ナデシカは、少年の言葉をそのまま受け取らないように、目線を合わせなかった。だけど、声色から見える少年の瞳は透き通っていて、もう少しだけ声が聞きたくなった。
「前を知っているのね。私は可哀想? それとも下品かしら」
話を繋ぎ止める言葉がこれしか出てこず、ナデシカは悲しみを感じた。きれいな服やお化粧、きれいな言葉が好きなナデシカにとって、今の暮らしは少しばかり窮屈だった。それでも、前の暮らしよりはいくらかマシで、「私はナデシカだ」と胸を張って生きている。だけど、たまに悲しくなる。いつか、と願う素敵な出会いはいつあるのかと。
「……僕はいつだって君の幸せを願っているんだ」
必死に心を制しようとするナデシカ。
少年は言葉をつなげる。
「あの夜、君が舞う姿が美しくて見惚れていた。みんな、君が掟を破ったことしか頭になかったんだ。でも、僕は君の踊りをちゃんと見ていたよ。君が人形ではなく人間なんだって伝わって、それを伝えようとする君を好きになった」
ナデシカは時間が止まったように動かない。今度はまっすぐ少年の瞳を覗いてみて、それでも一切の嘘が見当たらなくて、なぜか胸が苦しくなった。ナデシカの目からは涙が溢れていた。いつからかずっと溜まっていた涙が、掬い上げてくれる手を見つけたように、溢れ出して止まらなかった。
「あなたの言葉がきれいだから、あなたを信じることが怖いの」
あの夜のように、拙い表現で思いを伝えようとする。涙で肩を揺らすナデシカを見た少年は、静かに洗い終わった洗濯物を干し始めた。全部干して、タライも片付け終えてから、ナデシカの目線に背丈を合わせて言った。
「大丈夫。これからは言葉だけじゃなくて、態度でも君に伝えるから。愛しているって」
その言葉を残して、少年は去っていった。そして、それからは毎日のように店へ通い、ナデシカの仕事を手伝うようになった。時には「道に咲いていた花がきれいだったんだ」と、ナデシカを外へ連れ出すこともあった。そのうち、ナデシカも心を許すようになり、いつも少年が来るのを心待ちにしていた。
「私は、ちゃんとあなたのことを愛しているわ」
ナデシカがそう言う頃には、二人は互いに愛し合っていることを認め、どんなに着飾っても足りなかった心の隙間を埋め合っていた。
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