美しい海と今の恋

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美しい海と今の恋

 次の日、いつもの海に行くと彼女がいました。 僕は、彼女が待っていてくれたという事実に、感動してしまいました。 「良かった。いてくれて」 僕の言葉に彼女は、 「当たり前でしょ。でもこの間、小指の約束をしなかったから、ちょっと不安だった」 と、いつもより少し、僕の胸を疼かせるような態度で言いました。 「まずは、ごめん。その・・・話す機会まで君が与えてくれて」 彼女は首を横に振りました。 「ちゃんと話せた?」 「うん。話せたよ」 本当は、ちゃんと話せたのかどうか、よく分かりませんでした。 結局は前の恋人の優しさに、言いくるめられたようなものだったのかも知れません。 僕の弱さが、二人の別れに繋がったのに、前の恋人はそれを認めようとしてくれませんでしたから。 「いいよ・・・」 彼女は言いました。 「私たちはまだ、次に会う約束とか、そういう類の約束しかしてないんだから・・・あなたは、この海の最初の思い出に戻ってもいいよ・・・」 彼女のその言葉に僕が動揺したのなら、それはすぐに伝わってしまったでしょう。 だけどそんな彼女の言葉がむしろ、僕の決意を固めさせました。 「僕は・・・君に出会えて良かったと思ってる。君とこれからも一緒にいたいし、僕は君の事が・・・」 彼女は、僕の言葉を遮りました。 「あなたは、あの子に守られただけの、そういう男。それなのに、また、人魚に恋した愚かな男。私は、そんなあなたに恋して、私が私であるという保証が、この世から泡のように消えてしまいそうなの・・・私たちには違いがある。人間と人間が恋するのでも違いが沢山あるのに、それ以上のものを抱え続けなければならない。もしかすると、このままの距離感でいるとか、離れるという選択が幸せへの道という可能性もあるの」 彼女の言う通りでした。 でも僕には、犠牲になった前の恋があります。 振り返るわけにはいかないのです。 「だからって、僕らが一緒にいたら不幸になる可能性が高いとも思えない。むしろ、君と無理矢理離れて、幸せを祈り合う事の方が辛いはずだよ」 前の恋による後悔から意地を張っているのではない、と言い切れる感情ではありませんでした。 躍起になっているまではいきませんが、今度こそは、という自分勝手な感情も含まれていた事は否めません。 「僕は君の事が好きだ。君と笑い合っているのが今の僕の幸せなんだ。それに・・・君との約束が好きだ。君と小指を絡め合うのが好きだ・・・」 今度は彼女は、僕の言葉を遮りませんでした。 僕が放った言葉を、吟味するというより、素直に受け取っているように思えました。 彼女は、これまでのどんな会話よりも長い沈黙を作りました。 僕らの沈黙には、波の音があります。 きっとこれからも、僕らの沈黙は、本当の沈黙ではないでしょう。 「不安なのは分かるよね?私も、もちろんあなたも。無邪気に笑い合ったり、何も考えずに泳いだり、そういう事だけして生きていけるわけじゃないから」 「ああ。もちろん、分かってる」 「私、あなたの噂を信じていたとしても、あなたを嫌いにはなれなかったはず。あなたに出会えた事に感謝したと思う」 「僕も、君と出会えた事に感謝してるよ・・・」 彼女はそっと目を閉じ、一呼吸置くと、ついに言いました。 「私も、あなたとする約束が好き・・・小指は、あなた以外の他の誰とも触れ合わせたくない」 真剣な彼女のまなざしには、僕には分かり得ないほどの覚悟が混ざっていたでしょう。 僕も彼女には伝わり得ないほどの覚悟を持たなければなりません。 この恋を、決して軽く考えてはならないし、彼女が明るくて元気な性格だからと、それを信用しすぎるのも良くないのです。 「小指はって・・・小指以外も他の人と触れ合わせたらダメだよ」 僕は、敢えて冗談っぽく言いました。 彼女は、恥ずかしそうに笑いました。 「嫉妬彼氏?あ、彼氏って事でいいんだよね?」 「もちろん。でも、彼氏の期間は短いのが僕の望みです」 美しい海を大きな背景にして、何よりも誰よりも美しい彼女は、瞳を輝かせます。 「思ったより、情熱的なんだね」 前の恋では違いました。 やはり、前の恋の対価は今の恋であり、僕の積極的な心でもあるんだと思います。 「君だから・・・だよ。ねえ、もし嫌じゃなければ、手を繋いでも良いかな?」 小指だけではなく、僕の方から、彼女の手に触れてみたかったのです。 「うん。いいよ」 彼女は右手を伸ばし、僕に向けました。 その手は微かに震えていました。 彼女の覚悟の大きさが、そういうところから伝わります。 僕は彼女に少し近づき、僕の左手を彼女の手に重ねます。 そして、僕らは手を繋ぎました。 触れ合う面積が広がっただけで、こんなにも幸せになれる事を不思議に思うほどの幸福でした。 「一つ聞いてもいい?」 僕は幸せの中、彼女に問いました。 「何?」 「僕らが最初に出会った日、君はどうしてこの海にいたの?だって、この海は、良くない噂のある海だから・・・」 「ああ、それは・・・」 彼女は海の方を見て答えました。 「海が可哀想だから。海は悪くないのに、噂のせいで・・・」 そうやって海を見つめる事のできる彼女を尊敬し、同時に愛しさが込み上げました。 「だけど、今度は違うところでも会おうよ。海を愛する君なら、この海ばかりを特別扱いするのも良くない事だと思ってそうだし」 「もう、秘密の恋じゃないなら。うん。違うところでも会いたい。でも、ごめん。この海はもう、特別な海になってるから私、特別扱いしちゃうと思うの。一番美しい海。一番忘れたくない思い出・・・」 彼女は繋ぐ手に、少しだけ力を込めました。 「ねえ、私を嫌いにならない限りは、私たちの事、諦めないでね」 彼女の濡れた瞳に気づいた時、僕は彼女を抱きしめました。 彼女の体は思ったよりも冷たく、僕の心をざわつかせます。 「諦めないよ。僕は絶対に・・・」 僕の涙が、彼女の肩に落ちました。 彼女は笑って、 「冷たい涙」 と耳元で囁きます。 彼女は僕の頭をそっと撫でながら、こう言いました。 「大丈夫。私たちはきっと、最後の恋だから・・・」 その言葉に僕は、泣き続けました。 彼女はそんな僕を慰めるように努めながらも、彼女自身、堪える事はせずに泣いてくれました。 この先訪れるであろう数々の試練や、互いを愛し合う心の真実に・・・ 泣かないわけにはいかないのです。 僕らは、この恋に懸け、この恋に生きたいと願ったのですから。 「愛してるとか、そういう言葉を言ってもいい?」 僕は、彼女が人魚だからではなく、彼女が彼女だから、確かめてみました。 「いいに決まってるでしょ。恥ずかしいの?」 「まあ、それなりに」 「ふーん。まあ、そういうものか」 彼女は、僕をこれまで以上に真っ直ぐ見つめます。 「愛してる」 よく表現として聞くことのある、だけど人生で初めて発したその言葉は、とても照れ臭いのに、何度も言いたくなる魅力がありました。 僕らを包み込んだのは、やはり、本当の沈黙ではなく、波の音でした。 「私も、愛してる」 そう言ってから、 「あっ、こういう言葉は、言われるの好きじゃない?」 と、僕が僕だから、彼女は確かめました。 「好きだよ。何度も、いつまでも聞いていたいくらいに」 微笑む彼女が、今この瞬間、僕との恋を何よりの幸せだと感じていてほしい・・・ そう願い、それを叶えるのが、僕の今の恋、そして彼女を愛する理由なんだと思います。  僕らは海に潜りました。 彼女は美しく泳ぎ、僕はまだ、それなりの泳ぎです。 そして、彼女と僕はキスをしました。 愛してると言葉で伝えなくても、海の中での僕らは、それを伝え合う事ができます。 瞳に、互いの存在を映して。  この特別な海で、僕は彼女を愛します。 それは、彼女が人魚だからではなく、彼女が彼女だからです。 前の恋を犠牲にして僕は、今の恋に生きようと誓いました。 僕が必ず、彼女を守ります。 ここは、彼女と僕が出会った、美しい海です・・・  
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