0人が本棚に入れています
本棚に追加
美しい海と今の恋
次の日、いつもの海に行くと彼女がいました。
僕は、彼女が待っていてくれたという事実に、感動してしまいました。
「良かった。いてくれて」
僕の言葉に彼女は、
「当たり前でしょ。でもこの間、小指の約束をしなかったから、ちょっと不安だった」
と、いつもより少し、僕の胸を疼かせるような態度で言いました。
「まずは、ごめん。その・・・話す機会まで君が与えてくれて」
彼女は首を横に振りました。
「ちゃんと話せた?」
「うん。話せたよ」
本当は、ちゃんと話せたのかどうか、よく分かりませんでした。
結局は前の恋人の優しさに、言いくるめられたようなものだったのかも知れません。
僕の弱さが、二人の別れに繋がったのに、前の恋人はそれを認めようとしてくれませんでしたから。
「いいよ・・・」
彼女は言いました。
「私たちはまだ、次に会う約束とか、そういう類の約束しかしてないんだから・・・あなたは、この海の最初の思い出に戻ってもいいよ・・・」
彼女のその言葉に僕が動揺したのなら、それはすぐに伝わってしまったでしょう。
だけどそんな彼女の言葉がむしろ、僕の決意を固めさせました。
「僕は・・・君に出会えて良かったと思ってる。君とこれからも一緒にいたいし、僕は君の事が・・・」
彼女は、僕の言葉を遮りました。
「あなたは、あの子に守られただけの、そういう男。それなのに、また、人魚に恋した愚かな男。私は、そんなあなたに恋して、私が私であるという保証が、この世から泡のように消えてしまいそうなの・・・私たちには違いがある。人間と人間が恋するのでも違いが沢山あるのに、それ以上のものを抱え続けなければならない。もしかすると、このままの距離感でいるとか、離れるという選択が幸せへの道という可能性もあるの」
彼女の言う通りでした。
でも僕には、犠牲になった前の恋があります。
振り返るわけにはいかないのです。
「だからって、僕らが一緒にいたら不幸になる可能性が高いとも思えない。むしろ、君と無理矢理離れて、幸せを祈り合う事の方が辛いはずだよ」
前の恋による後悔から意地を張っているのではない、と言い切れる感情ではありませんでした。
躍起になっているまではいきませんが、今度こそは、という自分勝手な感情も含まれていた事は否めません。
「僕は君の事が好きだ。君と笑い合っているのが今の僕の幸せなんだ。それに・・・君との約束が好きだ。君と小指を絡め合うのが好きだ・・・」
今度は彼女は、僕の言葉を遮りませんでした。
僕が放った言葉を、吟味するというより、素直に受け取っているように思えました。
彼女は、これまでのどんな会話よりも長い沈黙を作りました。
僕らの沈黙には、波の音があります。
きっとこれからも、僕らの沈黙は、本当の沈黙ではないでしょう。
「不安なのは分かるよね?私も、もちろんあなたも。無邪気に笑い合ったり、何も考えずに泳いだり、そういう事だけして生きていけるわけじゃないから」
「ああ。もちろん、分かってる」
「私、あなたの噂を信じていたとしても、あなたを嫌いにはなれなかったはず。あなたに出会えた事に感謝したと思う」
「僕も、君と出会えた事に感謝してるよ・・・」
彼女はそっと目を閉じ、一呼吸置くと、ついに言いました。
「私も、あなたとする約束が好き・・・小指は、あなた以外の他の誰とも触れ合わせたくない」
真剣な彼女のまなざしには、僕には分かり得ないほどの覚悟が混ざっていたでしょう。
僕も彼女には伝わり得ないほどの覚悟を持たなければなりません。
この恋を、決して軽く考えてはならないし、彼女が明るくて元気な性格だからと、それを信用しすぎるのも良くないのです。
「小指はって・・・小指以外も他の人と触れ合わせたらダメだよ」
僕は、敢えて冗談っぽく言いました。
彼女は、恥ずかしそうに笑いました。
「嫉妬彼氏?あ、彼氏って事でいいんだよね?」
「もちろん。でも、彼氏の期間は短いのが僕の望みです」
美しい海を大きな背景にして、何よりも誰よりも美しい彼女は、瞳を輝かせます。
「思ったより、情熱的なんだね」
前の恋では違いました。
やはり、前の恋の対価は今の恋であり、僕の積極的な心でもあるんだと思います。
「君だから・・・だよ。ねえ、もし嫌じゃなければ、手を繋いでも良いかな?」
小指だけではなく、僕の方から、彼女の手に触れてみたかったのです。
「うん。いいよ」
彼女は右手を伸ばし、僕に向けました。
その手は微かに震えていました。
彼女の覚悟の大きさが、そういうところから伝わります。
僕は彼女に少し近づき、僕の左手を彼女の手に重ねます。
そして、僕らは手を繋ぎました。
触れ合う面積が広がっただけで、こんなにも幸せになれる事を不思議に思うほどの幸福でした。
「一つ聞いてもいい?」
僕は幸せの中、彼女に問いました。
「何?」
「僕らが最初に出会った日、君はどうしてこの海にいたの?だって、この海は、良くない噂のある海だから・・・」
「ああ、それは・・・」
彼女は海の方を見て答えました。
「海が可哀想だから。海は悪くないのに、噂のせいで・・・」
そうやって海を見つめる事のできる彼女を尊敬し、同時に愛しさが込み上げました。
「だけど、今度は違うところでも会おうよ。海を愛する君なら、この海ばかりを特別扱いするのも良くない事だと思ってそうだし」
「もう、秘密の恋じゃないなら。うん。違うところでも会いたい。でも、ごめん。この海はもう、特別な海になってるから私、特別扱いしちゃうと思うの。一番美しい海。一番忘れたくない思い出・・・」
彼女は繋ぐ手に、少しだけ力を込めました。
「ねえ、私を嫌いにならない限りは、私たちの事、諦めないでね」
彼女の濡れた瞳に気づいた時、僕は彼女を抱きしめました。
彼女の体は思ったよりも冷たく、僕の心をざわつかせます。
「諦めないよ。僕は絶対に・・・」
僕の涙が、彼女の肩に落ちました。
彼女は笑って、
「冷たい涙」
と耳元で囁きます。
彼女は僕の頭をそっと撫でながら、こう言いました。
「大丈夫。私たちはきっと、最後の恋だから・・・」
その言葉に僕は、泣き続けました。
彼女はそんな僕を慰めるように努めながらも、彼女自身、堪える事はせずに泣いてくれました。
この先訪れるであろう数々の試練や、互いを愛し合う心の真実に・・・
泣かないわけにはいかないのです。
僕らは、この恋に懸け、この恋に生きたいと願ったのですから。
「愛してるとか、そういう言葉を言ってもいい?」
僕は、彼女が人魚だからではなく、彼女が彼女だから、確かめてみました。
「いいに決まってるでしょ。恥ずかしいの?」
「まあ、それなりに」
「ふーん。まあ、そういうものか」
彼女は、僕をこれまで以上に真っ直ぐ見つめます。
「愛してる」
よく表現として聞くことのある、だけど人生で初めて発したその言葉は、とても照れ臭いのに、何度も言いたくなる魅力がありました。
僕らを包み込んだのは、やはり、本当の沈黙ではなく、波の音でした。
「私も、愛してる」
そう言ってから、
「あっ、こういう言葉は、言われるの好きじゃない?」
と、僕が僕だから、彼女は確かめました。
「好きだよ。何度も、いつまでも聞いていたいくらいに」
微笑む彼女が、今この瞬間、僕との恋を何よりの幸せだと感じていてほしい・・・
そう願い、それを叶えるのが、僕の今の恋、そして彼女を愛する理由なんだと思います。
僕らは海に潜りました。
彼女は美しく泳ぎ、僕はまだ、それなりの泳ぎです。
そして、彼女と僕はキスをしました。
愛してると言葉で伝えなくても、海の中での僕らは、それを伝え合う事ができます。
瞳に、互いの存在を映して。
この特別な海で、僕は彼女を愛します。
それは、彼女が人魚だからではなく、彼女が彼女だからです。
前の恋を犠牲にして僕は、今の恋に生きようと誓いました。
僕が必ず、彼女を守ります。
ここは、彼女と僕が出会った、美しい海です・・・
最初のコメントを投稿しよう!