0人が本棚に入れています
本棚に追加
人魚と二度目の恋
人魚と恋するのは二度目でした。
人間が嫌いなわけではなくて、ただ偶然、恋した相手が二度とも人魚だっただけなのです。
海で、彼女は僕に出会って最初にこう言いました。
「あなたみたいな男は、気に入らないわ。甲斐性のない男だって知ってるんだから」
僕の噂は、前の恋人のせいで、ある程度広まっていたらしいのです。
端から僕を受け入れる気などない、と言いたげな態度でした。
「噂だけを信じるような人は、僕だって気に入らないよ」
この時の僕は、まさかもう一度、人魚と恋するなんて思ってなかったので、良い人を演じようなんて発想もありませんでした。
「自分は甲斐性のある男だって言いたいの?」
彼女は、まさに強気な女、そういう態度で僕を責めました。
「そういうつもりじゃなくて。ただ・・・ただの悪者にはしないでほしいって思ってるだけだよ」
彼女の強気な態度に気圧されて、弱々しく反論することしかできなくなってしまった僕。
前の恋人に対して感じていた反省が、彼女に責められたことで、ふたたび明るみにされたようで悲しくなってきていたのです。
「僕は自分のしてしまった発言とか・・・反対に、してあげられなかった言動を・・・後悔しながら生きているのに・・・」
自分を情けないと思いながらも、僕のことなんて何も知らないくせに僕をただ悪く言う彼女を憎いと思いました。
「ごめん・・・そんな、落ち込まないでよ・・・初対面の私の前で、そんな素になってどうするのよ。っていうか、そんな弱い姿を簡単に見せるなら、それすらも、あなたの策略に思えてきちゃうじゃない・・・」
彼女は、あからさまに拗ねる僕を、困り果てた表情で見ていました。
「だから・・・策略とか・・・僕の噂はそんなに悪い内容なの?酷いよ・・・」
僕自信、どうしてこんなに感情的になっているのか分かりませんでした。
「分かった分かった。もう、悪く言わないから。このまま帰ったら良いよ。私が悪かったから」
彼女は海から僕を離そうとしました。
「今日、僕と会ったことは内緒にしてよ」
「どうして?」
「僕と会ったことを誰かに話すってことは、また誤解を生むってことじゃないか。いくら君が僕の事を好意的に話そうと、噂っていうのは誇張されたり、思いもよらない方向に向かったりするから」
「まあ、確かにそうかもね」
「だから、誰にも言わないで。約束」
「はいはい。分かりました」
僕がようやく離れて行こうとすると、彼女が
「待って」
と呼び止めました。
「何?」
「小指・・・」
「小指?」
彼女は小指だけを立て、僕の方に向けます。
「うん。約束するんでしょ?私、やってみたかったんだ。小指を絡ませるの・・・」
彼女は、恥ずかしそうに言いました。
「絡ませるって・・・分かったよ。僕がやってあげる」
僕は彼女と小指を絡み合わせました。
「約束」
僕が言うと彼女も、
「約束」
と言い、遠慮気味に微笑みます。
「じゃあ、行くね」
そう言い、彼女と小指を離した時、僕は物凄く寂しかったのです。
でも、もちろん寂しいなんて言えるわけもなく、彼女に背を向けて歩き出しました。
振り返りたくても、振り返る勇気はありませんでした。
「ねえ!」
すると、彼女の声がしました。
僕は嬉しすぎて、かなり勢い良く振り返ってしまったはずです。
「何?」
「海、好きなの?」
彼女の問いかけに、
「好きだよ」
と答えました。
小指を絡ませた時は平気だったはずなのに、なぜかその時になって、僕の顔が赤くなった気がしました。
「じゃあ、また来てよ。弱音を吐きたくなった時でもいいから」
彼女のその言葉が、どれほど嬉しかったか、何度でも鮮明に思い出すことができます。
「分かった。また、すぐ来ることになると思う!」
そう言って僕は、恥ずかしさのあまり、走って海から離れて行きました。
そんな僕を彼女はきっと笑ってくれていたでしょう。
それが僕の、二度目の人魚との恋の始まりでした。
一週間後、我慢の末に、僕はふたたび彼女に会いに海に行きました。
彼女はタイミング良く・・・いや、恐らく僕を待っていたのでしょう。
僕が海の近くに行くと、すぐに現れました。
「来ちゃった」
僕が言うと、
「来ると思ってたよ」
と、笑いかけてくれました。
「僕と会ってるのがバレたら、君も悪い噂を流されたりしないかな?」
僕はそれが心配で、一週間、ここに来るのを我慢していた部分があったのです。
「大丈夫。この辺りは・・・良くない噂があるし、あまり皆、来ないから」
「良くない噂?」
「あなたが・・・前の恋人と出会って、別れた場所だから・・・」
僕はこの海で、前の恋人の人魚と出会ったのでした。
「ねえ、初めて私と会った日。前の恋人の事を思い出して、あるいは、前の恋人との思い出に浸りたくて、ここに来たの?」
彼女は僕を試すように聞いてきました。
その発言自体には、勝ち気な雰囲気がありながらも、彼女の表情は不安でいっぱいにも見えました。
「良くない噂があるとしても、僕にとっては良い思い出の場所だから・・・うん。僕は、前の恋人との思い出に耽ろうとしたんだと思うよ」
彼女に嘘はつけない。
そういう思いで、僕は正直に伝えます。
「そっか。確かにあの子は、本当に美人だもんね」
何かを誤魔化そうとするような、彼女はそんな態度でした。
「別に、美人っていうのだけが理由じゃないからね。外見だけで判断するような男じゃないから、僕は」
なぜか慌てる僕を彼女は笑いました。
その笑顔は、少しずるくて、とても可愛かったのです。
「なんで慌ててるの?まあ、いいけど。それで、どうなの?前の恋は忘れられそう?あっ、ええと・・・忘れるというより、思い出す時間は減ってきてる?」
「そうだね。前に比べれば。というか、むしろ、思い出す回数が減ったから、ここに来たのかも知れない」
「別れても大切な思い出っていうのはあるからね。分かるよ。その気持ち」
「なんか、ありがとう・・・」
彼女と会ってまだ二回目だったけれど、彼女は僕の強い味方のように思えました。
「どういたしまして」
それからしばらく、二人で海を眺めました。
良くない噂のある美しい海は、良くない噂のお陰なのか、静かで、邪魔する者のない、特等の場所でした。
「海を嫌いにならないでくれて、ありがとう」
彼女は僕の方を見ずに言いました。
空は夕焼けで赤く染まっていました。
「僕を嫌いにならないでくれて、ありがとう」
僕がそう言うと、彼女はこっちを見てくれます。
だから、
「噂を信じないでくれて、ありがとう」
と、彼女の目をちゃんと見て、伝えました。
「だってあなたが、噂だけを信じるような人は気に入らないって言ったから・・・」
彼女の声は小さくなり、頬は赤く染まりました。
それが夕焼けのせいだなんて、そんな表現を僕は絶対にしません。
「これから、できれば頻繁に、僕と会ってくれないかな?」
言うまでは、そんなに緊張していなかったくせに、言った途端、僕の緊張がピークに達しました。
「うん・・・そうしたいな」
彼女は、出会った日の強気な態度が嘘みたいに、可愛らしく答えたのでした。
僕らはまた、互いの小指を絡ませ、約束しました。
彼女は嬉しそうに、長い間、その指を眺めていました。
僕らは約束通り、頻繁に会うようになりました。
僕が前の恋人と出会った、良くない噂のある海に、彼女との新しい思い出が重なり続けます。
彼女はこの海で僕と会う事を望みました。
邪魔者がいないから、という理由だと言いましたが、本当のところは分かりません。
別れても、大切な思い出があるという気持ちを分かると言ってくれた彼女なので、この海を僕に好きなままでいてほしいと気遣ってくれたような気もします。
彼女はよく笑い、元気で明るい、素敵な女性でした。
冗談もよく言い、強気な発言も魅力的です。
僕は彼女の前では、変に格好つける事もなく、自分らしくいられました。
ある日僕が、昔は泳げなかったという話をした後に、今の泳ぎを見られてしまうと、
「前の恋人に教えてもらったんでしょ」
と、僕の泳ぎ方から何かを察したのか、彼女がそう言いました。
もちろん一瞬、ドキッとしましたが、
「うん・・・」
と正直に伝えました。
すると彼女は、
「教える手間が省けて良かった。一緒に泳ごう」
と言い、僕の手を引きました。
彼女の前ではどうしても、嘘がつけない気がして、何でも正直に話しました。
そんな僕のことも、彼女は受け入れてくれました。
彼女は、泳ぐのが速くて、僕を置いていってしまう事がありました。
でも、最終的には戻ってきて、
「結局、教えなくちゃダメなのか。もっと速く泳げるコツを教えてあげる」
とか、
「私にもっとついて来て」
と言い、僕に泳ぎを教える事を、どこか嬉しそうにしていました。
僕の泳ぎの基盤は前の恋人から。
技術的な面では彼女が、時には厳しく教えてくれました。
「どうせ、前の恋人のあの子は優しく教えただろうから、私は厳しくいかせていただきます」
彼女はそんな冗談も言いながら、僕を成長させてくれました。
「君は、人間と付き合ったことがある?」
彼女が何でも受け入れてくれるものだから、つい、そんな事を聞いてしまった時がありました。
「ないよ」
彼女は、すぐにそう答えました。
「本当?」
「本当」
「本当に本当?」
しつこい僕を彼女は笑いました。
「嘘であってほしいの?私みたいに、嫉妬したいの?」
「えっ、嫉妬してくれてたの?」
その時に初めて、愚かな僕は彼女が嫉妬していた事を知りました。
「前の恋人の話を堂々とされても、私が嫉妬してないって本気で思ってた?」
「はい・・・」
「嫉妬するに決まってるでしょ。もう・・・でも、正直に話すあなたが・・・」
続きを望むように僕が彼女を見ると、彼女は言うのを途中でやめてしまいました。
「ごめん。私、今日はもう行かなくちゃ」
「そっか。また、すぐ会おう」
「うん」
僕が先に想いを伝えれば良かったと後悔しましたが、彼女が言い淀んだのが気になって、タイミングを逃してしまったのです。
だから、次に会う時は絶対に彼女に告白しようと、彼女が海の遠くに消えていくのを見つめながら決めたのでした。
彼女がわざと、僕の前の恋人の話を持ち出すような、そんな冗談を言わなくて済むように。
彼女を、安心させてあげたいと思いました。
最初のコメントを投稿しよう!