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結婚して十年が経とうとしていた。職場は違うけれど、私より出世した友樹は終業が遅くなることが増え夕食の支度は、ほとんど私がするようになった。
当たり前のように交わしていた挨拶は極端に減ってしまっている。私がキッチンに立っていると、ガチャンと玄関の扉が開く音がした。
「おかえり」
「ただいま」と、その一言が欲しいのに、友樹は疲れ切った顔を寄こすだけ。
「ご飯は?」
「ちょっと寝るわ。後で食べるから置いといて」
「分かった」
私の返事を待たずに友樹は寝室へ入ってしまった。
どうしてだろう?あんなに幸せだったのに。あんなに純粋に好きだったのに。一生懸命やってきたつもりだけど、何か足りていないんだろうか?どうしたら彼を癒してあげられるんだろう?そういえば、ずっと笑顔を見ていない気がする。
私は毎日、そんなことを考え続け、身なりに気を使い、料理のレパートリーも増やした。仕事が大変なんだろうと自分に言い聞かせもした。
そして、私たちの十年目の結婚記念日が一ヶ月後に迫った日のこと。もはや機械的になってしまっていたけれど、私は「おかえり」と声を発した。
「ただいま」
そう声が聞こえて思わず振り返ると笑顔の友樹が白い箱を持って立っていた。
「急に甘いものが食べたくなってケーキ屋に入ったんだけどホールしかなくて。買っちゃった。朱里の好きなティラミス。結婚記念日は、また別のやつにしよ」
ケーキよりも何よりも笑顔で反応してくれたことが嬉しくて私は泣いてしまった。
「おかえり…ありがとう友くん…最近、会話もまともにできなくて…私…何かしちゃったのかって…不安で…」
私が涙を見せることが少ないからか、友樹は面食らったらしい。慌てて近寄って抱きしめてくれた。
「…ごめん朱里。そんなに追い詰めてたなんて気づかなかった。今後は気をつけるから」
友樹の言葉からは強い決意が感じられた。その夜、私たちは久しぶりに一緒に布団に入り愛し合った。
私はまた、白く癒された。夜中にトイレへ行き、戻ってくると友樹が寝返りを打ったところだった。その拍子にスマートフォンが枕元から滑り落ちる。
結婚当初と変わらない愛しさがみ上げてきた私は微笑み、反対側へ回るとスマートフォンを拾った。瞬間、それは振動した。時刻は午前三時を過ぎている。
『これっきりなんて言わないで。会ってまたシよ?約束』
小指を立てた絵文字にハートがプラスされている。普段、友樹のスマートフォンを見ることなどない私はタイミングの悪さを呪った。それと同時に昔はよく耳にしていたプラスチックの音が、どこかから聞こえた気がした。
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