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I
「えぇー、このクラスに教育実習の先生が来ますぅ」
はじまりは、そう。教育実習生、高遠 尊先生が初夏の爽やかな風のように中学2年生の私達のクラスにやって来たときのこと。窓からやってくる新緑の若々しい香りを背に、彼はハキハキとした声で自己紹介をした。
「高遠 尊です。1ヶ月半、よろしくお願いします」
教育学部の大学生だという彼は中学生の私達にはないスラッとした背丈と、健康的な程よい筋肉。そして余裕のある笑みを待ち合わせていた。
(カッコいい先生)
普段から担任のおじいちゃん先生を見ている私たちからすると、彼の存在はアイドルが学校にやってきたかのような衝撃だった。
当然のようにクラスの一軍の女子勢が色めき立つ。”彼女いるんですかー?”とか、”年下ってタイプ?”みたいな質問が来るなか、笑顔でのらりくらりと答える高遠先生は相当なやり手のように見えた。
「えーっ、高遠先生はこのクラスの高遠 潤くんのお兄さんで、この学校のOBですぅ」
おじいちゃん先生の説明が入ると途端にざわめきが大きくなる。だって、クラスの高遠君は頭も顔も良いけれど、決して誰にも心を開かない孤高の存在だったからだ。
例えるなら”戦隊モノのレッドに会えなかった世界線のブルー”だと誰かが言っていた。きっと誰か然るべき相手と会えばハマるのかもしれないけれど、誰ともチームになれないからただの頭と顔が良いだけの協調性がないやつなのだと。
その指摘が悪口なのか的を射ているのかは私には判別し難かった。何故なら私は高遠君と話したことが数えるほどしかなかったからだ。
「......。」
高遠君の透き通るような目はどこも見ていない。話題にされたことに対して特に反応もしていなかった気がする。
私は隣の席の有村芽衣子に”カッコいい教育実習生だね”と話しかけようとした。しかし、芽衣子は高遠先生から目を離さないで居た。
(あれ......芽衣子?)
芽衣子とは古い付き合いで親友と言っても良い関係だ。それなのに、こんな惚けたような顔は初めて見たのだ。
*
「えぇー、今日の授業は教育実習で来ている高遠先生にやってもらいますぅ」
おじいちゃん先生の担当の数学の授業で、その授業は突然やって来た。他の教科のときに席の後ろの方でメモを取っていた高遠先生が今日は教壇に立って居る。
「今日は皆と一次関数をします。わからなかったら都度聞いてくれよ」
“はーい”という元気の良い声は公立中学校ならではのものだろう。ざわつく教室。このとき、隣の席から芽衣子が焦ったように小声で話しかけて来た。
「みどり、当てられたときわからなかったら教えて」
「? うん」
いつもはこんなことを言わないで諦めるのに、芽衣子はなんだかこの時から様子が変だったように思える。
*
(ちょっと待って。応用、難しい)
高遠先生の教え方は上手だったと思う。普段は眠くて堪らない数学の時間が、あっという間に過ぎていく。しかも、合間合間に入れてくる大学生活の話が自分たちの少し大人になったら未来を教えてくれるようでワクワクした。
でも、だからと言って普段ウトウトしながらきいて居る数学の問題が全部わかるようになったりはしない。
(次、芽衣子が当たる番だ)
机の並ぶ順番から当てて居るため、当てられる順番はわかる。私がわからないということは、私よりも数学がわからない芽衣子はもっとわからないだろう。芽衣子は泣きそうな顔で私を見るけれど、私だってお手上げなのだから手助けしょうがない。
無慈悲にも問題を解く時間は過ぎていく。高遠先生が教室の面々を見回し始めた。
「ん、じゃあこの問題......」
芽衣子が当たってしまう。私は高遠先生に目力でアピールをする。
「......折角だから、高遠!」
ドッ、と教室が沸いた。
高遠先生は敢えて弟の高遠潤君を指名したのだ。高遠先生は笑顔だけれど、高遠君は全然笑ってない。無表情のままの高遠君に高遠先生が挑戦的な言葉をかける。
「他の問題に比べたら難しいけど、潤は解けるかな?」
「x=2y」
「正解」
高遠君はなんともなく答えてみせる。高遠君は愛想は良くないけれど、当てられた問題は絶対に正解するのだ。
その時、教室の噂好きな子が先生に質問をした。
「高遠先生、弟が居るからこのクラスに来たんですかー?」
「こら、授業中だぞ。まぁ、でも潤のことが見たかったのは本当かな。皆、弟のこと、よろしくお願いします」
また教室が沸く。高遠先生は教室の空気を作るのがとてもうまかった。
(高遠君は全然嬉しそうじゃないな......)
授業中にだけかけているらしい黒縁眼鏡を畳んだ高遠君は茶番には付き合わないという風に教科書に視線を落とした。
その後、問題なく授業が終わって私と芽衣子は安堵して見つめ合った。
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