モナリザの歌い手

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「朝霞、どうしたの? 春眠暁を覚えず、ってやつ?」  静寂をたたえる水面に波紋が広がるように、どこか幾何学的な美しさを持ったメロディーに一石が投じられる。  友人の声にはっと我に返って、何でもない、と首を振る。その拍子に、ずっと固定されていた視線が彼から――志野くんから外れる。  一週間前の出会いから、私の意識の中心には常に彼のことがあった。 「何聞いてるの……って『モナリザ』かぁ」  私の耳から続くイヤホン、それをたどるようにスマホ画面をのぞき込んだ彼女は、どこかあきれたように告げた。それも当然、ここ一か月ほど、私はずっと彼女の――画面の向こうの歌い手の曲を聴き続けているのだから。  動画投稿サイトのチャンネル名は「音無」。歌ってみたをいくつか投稿している彼または彼女は、性別不詳、年齢不詳、投稿を初めてから三か月。それでいてチャンネル登録数はすでに十万の桁に上っている。各動画の再生回数も多い。  「音無」――その人がこれほどまでに脚光を浴びているのは、男の人とも女の人ともつかない不思議な、それでいて心に波紋を広げるような透明な歌声が理由だった。  それは例えるならば、地上に生きる者を斟酌することなくただ照り続ける月光、あるいはしみいる慈雨。ぽつりぽつりと降りしきる雨音には人の心を慰めようなんていう意思はないのに、なぜだかそこに優し気な響きを感じてしまう……そんな歌い手なのだ。  性別不明の、芸術を思わせる声音と歌。その人は最近「モナリザの歌い手」としてもてはやされていた。 「よく飽きないよねぇ」 「咲夜(さくや)も聞いてみれば? 気に入ると思うけど」 「ジャズのように踊りだしたくなるような躍動感があるなら、ね」  音楽性が合わないのよ、と首を振った彼女は、別のクラスメイトに呼ばれて私の前から去っていく。その軽快な足取りの中、片耳だけつけたままだったイヤホンから聞こえてくる音が重なる。  まるで、雨垂れのように、私の心の中で反響してやまない音の波。  これをきっと、感動と呼ぶのだろう。  ただコンテンツを「消費」していたこれまでとは違って、おそらく私は、心底この曲に、「音無」という歌い手にほれ込んでいた。  ――ただし、不満なことが一つ。  目を閉じ、その声音がもたらす世界観に浸ろうとしたその瞬間、これまでただただ澄み渡っていた世界に、一つの黒点が生まれてしまうのだ。  まるでブラックホールのごとく私の意識を吸引するそれは次第に一人の顔を浮かび上がらせる。  拒絶するように目を開き、視線は再び左斜め前方、窓際最前列の席で静かに本を読んでいる彼の背中へと向かう。  やや猫背になって本を読んでいる彼の名は、志野零羽。  このクラスで、あるいはこの世界で、わたしだけが彼の正体を知っている、のかもしれない。  大型新人ともてはやされるモナリザの歌い手の正体こそ彼だと、そのさえない背中と無骨な黒メガネから、だれが想像できるだろう。  ひょろりと高い背。体の輪郭は細くて、けれどブレザーに包まれた背中はとても女の子には見えない。  普段の声だって、男の人のそれだった、と思う。  ただ一つ、その背中に感じる、なんの自我も感じさせないような透明感だけは、耳に聞こえてくる声音のそれだった。
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