モナリザの歌い手

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 果たして、彼は今日も公園にいた。  金曜の公園。仕事帰りのサラリーマンが一人通り過ぎる以外には人気のない闇の先、やっぱり同じようにブラコンに座る影が一つ。  ただ先週と違ったのは、あの冬の空にどこまでも響くような歌声は聞こえなかったということ。 「……こんばんは」  きっと、私が来ることを予感していたんだ――秘密という甘美な響きを胸に抱えながら、私は夢を見るような気持ちで彼に歩み寄って。 「馬鹿なの?」  果たして、予想もしない辛辣な言葉が胸に突き刺さった。  今日も今日とて眼鏡を外した彼は、けれど透明とは程遠く、険しい目で私をにらんでいた。 「え……っと」 「言ったよね、君。秘密を守るって。それなのにどうしてまたのこのこ来てるわけ? もしかして約束を守る気がなくなったとか?」 ――約束する。誰にも言わないって。 「……あ」  吹き抜ける冷たい風が頬を撫でるくすぐったさとともに、先週私が告げた言葉が耳の奥によみがえる。  なるほど、確かに私は誰にも言わないと約束している。だから、このまま秘密を墓場まで持っていくくらいの気持ちで、彼に関わらず、あの出会いもなかったものとして生活していくのが正しいのかもしれなくて。 「……誰にも言わないって言っただけだもん。ここに来ないとは言ってないでしょ」  まるで言い訳の利かない子どものように、嘘は言っていないと子どもっぽい理屈をこねる私がそこにいた。  仕方がない。だって、気になったんだから。  まっすぐに、じっと見つめれば、彼はしばらく無言でいたのち、すっと視線を持ち上げて空を見上げた。  追うように上を向けば、そこには都会の光に染まった、曇っているのか晴れているのかもよくわからない空が広がっていた。真ん丸な月が見えるからおそらくは晴れていて、けれどわずかな光に染まった空には、とてもではないけれど美しい星々がいるようには見えなかった。 「……確かに、言ってなかったけどさ」  ぽつり――零れ落ちた声音は、やっぱりどこか透明感を持っていた。  それはない、と責めるような響き。でも、私だって嘘はついていない。  虚勢を張り、胸を張る。じっと見つめれば、やがて折れたのは彼のほうだった。  深いため息が冬空に消えていく。わずかに見えた息を追うように視線を動かしながら、必死に言葉を探す。  今更ながらに気恥ずかしさが心を満たしていた。どうして私はこんなところにいるのだろう。大胆にも一人、夜に家を出て男の子に会いに来ているのだろう。 『ちょっと人に会ってくる』 『会って来るって……もしかして男の子』 『そうだよ』  考え、そして、つい先ほど、家を出る前に口にした言葉がよみがえった。 「……うわぁ」 「うわぁ、って言いたいのは僕だからね? いきなりクラスメイトに『うわぁ』って言われる身にもなってよ」  冷え冷えとした目に射抜かれ、慌てて顔の前で両手をばたばたと動かして否定をしようとする。けれどお母さんに間違いなく誤解されただとか、どんな顔をして帰ればいいのかとか、意外と顔が整ってるなぁとか、とにかく思考があっちへこっちへ飛んで、恥ずかしくて、まともな言葉なんて出てこなかった。  それでもしばらくしていれば冬の空気が頬の熱を飛ばしてくれて、ようやく気持ちが落ち着いた。  もはや志野くんは私には興味を失ったようで、きぃこきぃこ、と軽くブランコを揺らしながらどこか遠くに視線をやっていた。その先にあるのはありふれた町並みとビルの隙間から天へと向かう闇ばかり。  透明な瞳が何を映しているのか気になって、隣あったブランコに座って漕ぎ出してみる。  久しぶりに乗ったブランコは冷たくて、お尻はもちろん、あっという間に手がかじかんでいく。  きぃこ、きぃこ。金属がこすれ、空気が耳の横で走り抜ける。彼の音、私の音。意思の介在しない無機質な音は、なぜだか複雑に絡み合い、一つのメロディーを奏でだしそうで。 「……それで、何しに来たの?」  いい加減しびれを切らせた志野くんのとげとげしい声音が、その旋律をあっさりと吹き飛ばしてしまった。 「……何?」  いらだった声音に、何でもない、と首を横振る。なんだか不思議でけれど悪くない気分だったのに、なんていう八つ当たりの気持ちは冬の夜空に溶かすようにして吐き出して、代わりに私の中に根付いている熱を表す言葉を探す。 「志野くんが、さ。音無……モナリザの歌い手なんだよね?」  きぃこ、きぃっこ。  揺れるブランコの音に、わずかな動揺が現れる。じっと横を見ながら暗い中でブランコをこぐのは怖くて、慌てて体勢をたて直す。 「……だったら、何なの?」  思ったよりもずっと静かな言葉に、用意していた言葉はのどに引っかかって出てこなかった。  すごいね、とか、きれいな歌声だねなんて誉め言葉、あるいはチャンネル名の由来だとか、そういうのは今この時を台無しにする無粋な言葉であるように思えてならなかった。 「……私、ね」  ブランコを止め、そっと足を地面から話して目を閉じる。そうすれば途端に自分がどこにいるのか、どんな状態なのか、全部を見失ってただ、闇に溶けていきそうになる。  そうして心の奥の奥、本当に問いかけたい言葉を探す。 「志野くんのこと、全然知らないの」  記憶に残っていない。透明な貴方は、私の中にはいない。  だから正直、志野くんの歌声を聞いて戸惑った。まさかそんな、聞きほれるほどにすごい歌い手がすぐそばにいて、これまで気づかなかったなんて、って。  でも存在感が希薄な志野くんを覚えていても仕方ないのかもなんて思って、その一方で、どうして私は覚えていなかったのかが気になったのだ。  存在感が希薄――でも、話してみればそんなことはなくて、だからこそ、一層不思議に思えた。  きっと志野くんは、わざと空気のように溶け込もうとしているんじゃないか、って。 「志野くんは、さ。多分、誰の記憶にも残らないようになんて、そう意識して過ごしているんじゃないかな、って思ったの。……違う?」 「…………さぁね」  ギギ、と大きくきしむ音が横から聞こえた。その間が、ある意味で答えだった。 「どうしてか、聞いてもいい?」  一挙手一投足を見逃さないように――闇になれた目を開けば、そこには大きく漕ぎ出した彼の背中と、その体が闇へと飛び出す様子が映った。  暗がりを舞う体。一瞬すべての音が止まった気がして、その次の瞬間には、ガシャンガシャンと、反作用でおかしな揺れ方をするブランコの鎖が耳障りな音を響かせる。  無音で地面に着地した彼は、くるりとその場で振り返る。  黒々とした瞳に闇をたたえながら、彼はまっすぐに私を見る。 「僕は跡を濁さず、羽音一つ立てずに飛び立つ鳥でありたかったんだよ――」  静かな声に、旋律はない。透明な声には後悔の響きはなくて、ただ誰かの過去を代弁しているみたいな、静けさがあった。 「……零羽だから?」  名前が理由かと、問う言葉は遠く闇の先に届くことはなくて。  きぃこ――残響のように一つ、空っぽのブランコが音を鳴らした。
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