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冬は深まり、やがて終わりを迎える。
命を刈り取る季節は緩やかに過ぎ去り、時折春の気配を感じるようになった。
早くも受験に向けて動き出した生徒の中、私は宙ぶらりんのまま、今日もただ無為に時間を過ごしていた。
一分一秒が長かった。これほど時間が過ぎるのが長いと思ったことは無いと言うほどに、時の遅さを感じずにはいられなかった。
それはきっと、ずっとそばにあった音楽というものを、私が拒絶するようになったからなのかもしれない。
あの冬の日から少しして、私は両親にあるものの購入を頼んだ。
ノイズキャンセリング機能付きの、音楽プレイヤー。
音楽なんてスマホ一つあれば聞けるこのご時世、音楽プレイヤーはやや時代遅れなのか機種も少なくて割高に感じられたけれど、入れているデータ以外の曲が流れることは無いというただ一点において、それは何よりも大きな価値を持っていた。
何もない時間、特に給食の時間は、必ずといっていいほどイヤホンをしていた。だってそうしないと、お昼の放送で流れる音楽を耳にしてしまうから。数度流れているのを聞いたことがある、彼の歌声を耳にしてしまうかもしれないから。
音楽プレイヤーを両親に頼んだ前日、彼が歌ったことのある曲のイントロが流れてきた時点で過呼吸を起こすほどだった私にとって、音楽プレイヤーは肌身離さず持っていなければならない必須アイテムになっていた。
とはいえ、時が過ぎ去れば、投稿が続かない歌い手など忘れられていく。消費社会において、コンテンツなどと言うものは目新しさを失えば埋もれていく。例え光るダイヤの原石だとしても、原石である以上、磨かれなければ少し価値を感じる石に等しい。
ダイヤになれなかった石は、人々の心に残ることもなく、あっさりと耳にすることもなくなった。
ただ、私の心にだけは、私の頭の中にだけは、いつだってふとした拍子に彼の歌声がよみがえった。
それは例えば、朝の時間に彼の後ろ姿を眺めながら聞いた曲。
下校時、友人と別れて一人家までの短い時間の間に鼻歌を重ねながら楽しんだ曲。
そして、あの冬の夜、ブランコに座りながら彼が静かに歌っていた曲。
夜闇の中に浮かび上がる艶の無い黒髪と、黒々とした瞳。そして対照的な白い肌が、ふっと瞼の裏に浮かび上がった。
ともすれば病的なほどに白い肌。
苦しそうにせき込む姿。
誰の記憶にも残らないようにしているような、影の薄さ。
生と死を感じさせ、男と女という垣根を超えた、解脱を思わせる透明な歌声。
『僕は跡を濁さず、羽音一つ立てずに飛び立つ鳥でありたかったんだよ』
ふっとよみがえったのは、透明なんかじゃない、志野零羽という人間の声。それから逃げるように、拒むように、家へと続く道から逸れる。
『お前のせいだけど、お前のせいじゃない。……ただ、見つかったから。見つけられて、突き放したつもりなのに踏み込んできて、だから――』
――だからきっと、お前のおかげなんだよ。
声が、はじける。まるで、私の目を覚まさせるように。
視界が開けた気がした。違う。灰色ばかりだった世界に、唐突に色がついたんだ。
顔を上げる。涙でにじんだ世界に、見覚えのある景色を見止めた。
見間違えるはずがなかった。例え明るさが違うだとか、四季の装いが違うだとか、そんなことは関係ない。
住宅街にぽっかりと現れた小さな公園。ブランコとシーソー、ベンチと水道があるばかりのそこから、歌が聞こえた。
朗々と響く声。熱く語りかけるような声。
一歩、まるで導かれるようにして、私は園内へと足を踏み入れていた。
足はまっすぐと、私たちの出会いと逢瀬の場だったブランコへ。
そこに、彼の姿は無い。あるはずがない。ただ、彼の面影のある――いいや、彼という人間を作り上げた一人、おそらくは志野くんのお母さんがそこにいた。
目を閉じ、小さくブランコに揺られる彼女の手に、見覚えのあるスマホが見えた。
私の、スマホ。あの日、志野くんの手に渡ってそのままだったそれが、歌っていた。彼の声で、けれど「音無」ではない在り方で、歌っていた。
足が止まる。ゆっくりと顔を上げた彼女の目が、私を捉える。その目には涙がにじんでいた気がして、けれどぐしゃぐしゃになった私の視界では、顔の輪郭さえ曖昧だった。
「……ごめんなさい。てっきり零羽が勝手にスマホを買い替えていたのかと思ったの」
だって、彼のアイコンとよく似たロック画面だったから――声に、思わず顔が熱くなってしまう。もはやミーハーと呼ばざるを得ない過去の自分の行動を突きつけられて、今すぐに逃げ出したくて。
けれどどこまでも響き渡る彼の声が、私の足を縫い付ける。
ここにいるぞと、叫んでいた。僕はここにいるんだと、叫んでいた。
――矛盾、していたんだ。どこか死を受け入れ、全てに諦観して、歌声に何の感情も感じさせないような透明性が生まれて、それでいて、動画サイトに自分の歌を上げる。自分の歌を聴いてもらおうと、自分がここにいると、確かにいたのだと、そう伝えようとする。
ちぐはぐで、けれどきっと、今聞こえてくるこの歌こそが、おそらくは最後の時まで、この公園に残って紡いだ彼自身の歌声が今、こうして私に届いているのだと。
『前のように歌えなくなっただけなんだよ』
ああ、そう言っていたっけ。だから、投稿できなくなったって。「音無」として、歌えなくなったって。
『だからきっと……お前のおかげなんだろうな』
私が、踏み込んだ。透明だった彼の世界を塗りなおすように、踏み込んでしまった。死へとひた走るばかりだった彼に、私が、何かを投げつけたのだ。
苦しかったかもしれない。辛かったかもしれない。受け入れた――いいや、受け入れきれずに逃避した現実を改めて突きつけられて、きっと痛かったはずだ。
それでも彼は、私を抱きしめてくれた。雨から守ってくれた。そして、たった一人、私のためだけに歌ってくれた。
生きろと、そう歌っていた。
「きっと、この場所で貴女に渡すべきだと思ったの」
「……はい。ありがとう、ございます」
ああ、そうだ。この場所から始まった。秘密を抱えた、私たちの短くて、ほとんど一方通行な物語が。
けれど私の言葉は、私の投げつけた数々は、確かに彼に届いていて、受け止められていて、帰ってきた。
繰り返し、繰り返し。
暗くなってもなお彼の声を聴きながら、私はそっとブランコを揺らした。
今だけは、今だけは、貴方との思い出に浸らせて。
生と死のはざま、モナリザのように曖昧で透明で芸術作品のようにどこかつかみどころのなかった貴方の、本当の声に浸らせて。
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