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「秘密だよ。僕が――だってことは」
――もったいない。
出かかった言葉を飲み込んで、私は曖昧に笑った。
夜の公園。聞こえてきた声音にまるで誘われるようにして足を運んだ先。古びたブランコに座り、静かに、朗々と歌い上げる彼の姿がそこにあったのだ。
志野零羽。物静かで、どこかなよっとした印象を覚えるクラスメイト。
いつも掛けている不格好な黒縁の眼鏡を外した彼は、どこか凍てつく冬の空気を思わせ、それでいて芽吹きを促す春の陽光を幻想させる声音を世界に響かせていた。
白い肌に、艶のない、夜に染まるような黒い髪。黒々とした瞳は、感情を宿さぬ無機質な光に染まっているように思えた。
男の人のようで、女の人のようで、命を摘み取る寒さのようで、命を育むぬくもりのようで。
たとえるならばそれは、ただ静かに空に輝く月光。あるいは、何も悟らせることはない芸術、モナリザ。
――そうして、私は気づいてしまったのだ。
彼の歌声を、聞いたことがあると。彼こそは、昨今ネットを賑わせる「歌い手」だと。
その動揺から体が動いてしまって、無意味に足を踏み鳴らした。ジャリ、と砂がこすれる音はやけに大きく響いた。
彼は途端に歌うのをやめ、その透明でいて正体を気取らせない輪郭のおぼろげな歌声は、月が陰るように世界から姿を消してしまった。
一瞬にして暗くなった公園。闇の中、まっすぐに私を射抜く目線。
立ち上がった彼の背後で、ギシギシとブランコが揺れていた。
近くまで来た彼は思ったよりもがっちりした印象を覚えた。とても、なよっとした、なんて言葉がふさわしいようには思えなかった。
――彼には、私にはない確かな「芯」があった。
「……氷室さん、だっけ」
氷室朝霞。私の名前を思い出しながら口にした彼は、苦い顔をするわけでもなく、ただどこまでも澄んだ目で私を見下ろしていた。
そうして、彼はゆっくりと、念を押すように告げた。
今夜の邂逅は胸の内に秘めておくように――と。
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