3.英語

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3.英語

 ラジカセのスイッチを入れる音がして、出囃子が流れる。女生徒が「めくり」をめくると『常総亭下妻』という寄席文字が見えた。 「漫才の次は落語? なんか本格的ね」と典子がささやくと、 「英語じゃなくて落語ってなんのことだか」と七原は応じた。  和服を着た下妻先生が腰をかがめながら現れる。裾を器用に捌きながら正座して、 「えー、大勢のお運び誠にありがとうございます。一説には単位目当てと言われておりますが、まあ動機はどうであれ、教師も噺家も客商売に違いはありません」  とくすぐりを入れると、すとんと羽織を脱いで本題に入る。 「さて、江戸時代の終わり頃、ある魚屋の勝五郎というある男がおりました。魚屋といってもある店を構えている訳ではなく、いわゆる棒手振り。河岸、お菓子じゃありません、今で言うマーケットで仕入れた魚たちを二つの桶に入れ、それらをある天秤棒で繋いで、いくつかのストリートでヴォイスを張り上げ、近隣のハウスワイフたちを集め、自らの生計を立てております」 「ある魚屋とか魚たちとか、いくつかのストリートとか英語っぽいね」 「ふだんからああいう喋り方だよね。職業病かな」と典子と七原の会話。 「さて、この勝五郎、本来は good skill 魚屋なのですが、困ったことに大変な酒好き drinker で、自らの仕事の合間に酒を呑んでは酔って ruins business しまうこともしばしばなんです」 「習ってない言い回しが多くてわかりませーん」 「April Fool class なんだからマジメに考えないでくださーい。understand by atmosphere なのです」 「批判するとかえって英語増えるだけよね」と典子は言う。 「さて、閑話休題 Aside from that 。この勝五郎、しくじるとヤケになるもんだから customers に叱られる。and then 一層酒量が多くなってしまいます。この辺の機微は、心の中で頷いている方もおられるでしょう」 「未成年に何言ってんだよ」と川田が野次を飛ばすと教室がドット沸く。しかし、七原は全く別のことを考えていた。 『これは「芝浜」じゃないか。1時間近く掛かる大ネタだぞ』  『芝浜』が大ネタなのは事実なのだが、演じるのもむずかしい。まず、ほとんどが勝五郎とおかみさんの会話で変化が乏しい。次にその会話が似たようなものが多い。こんな感じである。 「年末、世間の人たちは一年の締めくくりに精を出している時期なのに、勝五郎は朝から酒を呑んで寝床に潜っております。 『おまえさん、おまえさん、もお Darling 起きるっちゃ、Get Up! 』」 「先生! そこは Wake Up じゃないんですか?」 「知りません。同じようなものでしょう。勝五郎は眠そうに答えます。 『う、うーん……。なんだよ、邪険 unkind な起こし方しやがって。ふあ、あ。ん……?おいおい、まだ日も昇ってねえじゃねえかよ……。おう、こんな暗いうちから亭主 husband 叩き起こしやがって、どういうつもりだ?』」  下妻先生は覚えたての人情噺を披露できてご満悦。ぐうたら亭主が芝の浜で大金の入った財布を拾ったことから話が動くのだが、勝五郎の驚きやおかみさんの狼狽といった心理描写がぎこちなく、ついつい説明調になる。そうなると初めて聴く者でも結末がわりと見えやすい噺なので、生徒たちはダラけてしまう。 「せんせー! 落語はフィクションだから嘘授業だってことなんですか?」 「ぼく、オチ知ってますよ。夢オチですよね」  勝手なことを言い出す。ところが下妻先生は落ち着いた様子で続ける。 「はいはい。じゃあ、嘘授業のネタばらしをしましょう。この演目、『芝浜』を聴いたことのある人は、財布 wallet の落とし主が出て来ないのかなと思ったことはありませんか?」  七原には心当たりがあった。財布が降ってわいたままなのは落ち着きが悪い、伏線が回収されていないように感じていた。小説や映画なら編集者やプロデューサーからダメ出しを……いや、そんなことを言うと古典落語ファンから大目玉を食らうだろう。 「では、財布を浜に落としたのは誰だったんでしょう?」 「わかんなーい。何かヒントください」  仕込みだな、それどころかリハーサルしてたっぽいなと七原は思う。 「しょうがないなぁ。特別ですよ。魚にも英語にも関係のある歴史上の有名人物です」 「え? ひょっとして、あのジョン万次郎!?」 「そうです。Manjiro Nakahama です。小さな漁船で土佐の港から出港し、難破してアメリカの捕鯨船に助けられたあの人です。帰国後、通訳などで幕末期の日本に貢献しましたが、彼にはいまだに謎の面が多いのです」 「ホントですか! 嘘でもすごいです」 「ふふふ。そうですよね。では、みなさんだけに教えましょう。勝五郎夫妻に託された財布ーーいえ、あれは電子携帯端末 smart phone だったのです。それが勝五郎さんに夢を見せたのです」  おいおい、この調子だと銀さんも出て来るなと七原は思った。
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