香り纏わせ

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香り纏わせ

 おりんはここのところ、香木を集めていた。とはいえ伽羅などは値が張るので買えず、他の物も集めているほとんどは欠片程度の物だ。作る物を考えればそれで足りている。少し前まで花街にいたおりんには、その伝手が僅かだがある。香木を色々と組み合わせてはああでもないこうでもないと試行錯誤していた。  「これが香木ってやつ?」  団子屋の仕事の合間に顔を覗かせたお夏が、木片に顔を近付けてすんすんと鼻を鳴らした。その手から然りげ無く木片を取り返しながら、おりんは機嫌よく頷いた。  「そうだよ。雪治に匂い袋を渡そうと思ってね」  「雪治さんに?……匂い袋ってシュクジョのタシナミってやつじゃないの?」  「でも雪治はいつも袖に匂い袋を入れているじゃないか」  「うーん……そういえばいい匂いがした……かも?」  淑女の嗜みという言葉を言い慣れないのだろうお夏が片言で聞きながら首を傾げた。そこには言外に「女の物を男に贈るのか」という疑問があった。雪治の袖口から時折ふわりと香る匂いを気にしていたのはおりんだけだったようで、お夏は頭を捻ってみてもその匂いを正確には思い出せなかった。  いつも雪治の纏っている牡丹のような匂いも良いが、その香りは残念ながらおりんには再現しようがない。それに、せっかく贈るのだから己を想わせるような香りにしたいという、片思い中のひとりの女としての欲もある。己の調合した香りを想い人が纏ってくれたならどれほど幸福だろうか。  袖に入れてくれるかも知れない、と空想するだけで頬も緩む。おりんは上機嫌に龍達節(りゅうたつぶし)を口ずさみながら、また香木を調合する。人の恋愛ばかり好きなお夏が、そんなおりんを見てニヤニヤしていた。  そんな日々を繰り返し、やっとおりんの満足する匂い袋が出来た頃、朔月の日がやってきた。夕刻、人々が仕事を終えて冷や飯を食べている中、腰に木刀を差した侍が何処からともなくやって来る。朔月だから来るはずだと、落ち着きなく夕餉を食べていたおりんの元へ、待ち望んだ足音が近付いてきた。  「おりんさん」  「待ってたよ、雪治」  「お久しぶりです」  雪治が名を呼びきるのと同時に戸を開け、けれどおりんは精一杯なんでもないように余裕のある笑みを浮かべた。決して叶うことのない恋だとわかっている。今はただひと月ぶりに見る雪治の笑みさえ見られれば幸福だ。だがそれもいつまでも続かないのだと、雪治本人から先月告げられてしまった。だからこそ匂い袋という形ある物を用意したのだ。  ひとまず暗くなる前に食事を終えるべきだと雪治に促され、おりんが夕餉から片付けまで終えた後、彼女は小箱からやっと完成したばかりの匂い袋を取り出す。それから雪治の手を取り、そっと手の平の上に乗せる。初めて彼らが出会った夜におりんの着ていた着物を切って作られたそれは、結局おりんがいつも袖に忍ばせている匂い袋に近い香りになった。  「匂い袋ですか」  「あんたに餞別だよ。あと少ししか此処には来られないんだろう?」  「ありがたく頂きます」  そもそも受け取って貰えるかもわからないだろ、なんて大家の清之助には言われたが、おりんには受け取って貰える自信があった。ほれ見ろ、と内心で得意になる。だってそうだろう、毎度わざわざ雪治がおりんの部屋に来る必要はないのだ。それが恋かどうかまでは確信がないが、贈り物を受け取る程度の好意はある筈だ。  雪治が匂い袋を顔に近付ける。ぱちりとひとつ瞬きをすると、目を細めて口角を上げた。ただ微笑んでいるだけとも言えるし、しかしやっている笑みでもある。  「おりんさんの匂いがする」  おりんは息を呑んだ。なんて、なんて(たち)の悪い男だろう。心の臓を落ち着かせようと胸を抑えながら、おりんは目の前の男を憎らしく思った。己とて花街では客に対してやっていたし、周りの遊女たちがやっているのも見ていた。だから解る。食虫植物が虫を誘うために匂いを放つような、これはそんな笑みなのだ。  「雪治……あんた悪い男だね」  「いいじゃないですか、未来の妻にやる分には」  打って変わって無邪気な悪戯っ子のように笑った雪治に面食らう。先月おりんがした来世で雪治の時代に生まれて結婚する宣言をここで使うとは。それはつまりもう、事実上、婚約みたいなものではないか。などと考えて、おりんはそっと雪治の手を握る。  「今日は随分と色男だね」  「元々です。江戸ではそんな余裕がないだけですよ」  言外に遊び人ぽいという指摘を含ませたおりんに、雪治は苦笑を浮かべて肩を竦めた。  「ふうん……なら今日は余裕なのかい?」  「今のところは。もう色々と乗り越えましたし、友人と遊ぶことで気分転換もしたので」  「へぇ、そりゃよかったよ。前はかなり打ちひしがれていたから心配してたのさ」  「うっ」  「それに初めに会った時には泣いていたし」  「うぐっ……」  からかい返すおりんの口撃で沈んだ雪治に、思わずおりんは声を上げて笑う。  「あっはっはっ!キマリきらないねえ、色男さん?」  「一枚どころじゃなく上手(うわて)だ……」  してやられて気恥ずかしそうに襟足を掻く雪治を見て目を細める。長屋の皆は助けられたから惚れただの、長身だからだの、顔が良いからだの言うが、おりんにしてみれば雪治の魅力はそうじゃない。無論、それらも正直言うと全て要因ではあるが、何よりこのお侍は可愛らしいのだ。強くて格好良くて優しいだけじゃなく、変なところで弱くて情けないのが愛おしいじゃないか。  もう少し格好付けたかったと拗ねる、人間味あふれる神の使いの姿に、おりんは満足げに微笑んだ。天寿を全うしていつか生まれ変わったら、必ずこの人の妻になってまたこんな顔を見たい。どうか神様。そう願いながら。
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