憎しみの果てに

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憎しみの果てに

 おりんと共に仮眠、というのは阻止されたため清之助の家で寝ていた雪治は、溺れる夢を見て丑の刻に飛び起きた。それは悪夢への恐怖ではなく、外部からの影響だという直感だった。  幼少の頃より"人ならざるもの"の存在が身近だった雪治は、時折このように妖などの影響を受けた夢を見た。雪治は隣で寝ている清之助を起こさないよう、最大限に音と気配を消して外に出る。木刀に纏わせた霊力の光が行灯代わりだ。  来た時に見た地面は乾いていたが、昨日辺り上流で雨が降っていたのだろうか。遠くに聞こえる川の音が激しい。殺気、と呼ぶには鈍い。けれど、体に纏わり付くような怨みと悲しみを感じる。その感触の不快感に眉を顰める。夢の内容からして向かうべき先は轟音を立てる川だろう。貰った匂い袋のある左の袖をちらと見た。  「酷い」  「憎い」  「狡い」  「苦しい」  「怖い」  「痛い」  川に近付くにつれ、様々な悲痛な声が聞こえてきた。は童子の姿をしていた。中には赤子の姿もあった。川縁に居るその子供たちを川から離そうと考え、けれどはただの子供ではないと気付いて足を止める。  ぐ、と木刀を握る手に力が入る。今はもう妖だとしても、見逃せば江戸に生きる人々が危ないとしても、子供を簡単に斬れる雪治ではなかった。  斬りたくないと斬らねばならないの狭間で、雪治が今にも泣きそうな目をしながら木刀を構える。鋒がぶれる。何故こんな小さな子が死ななければならないのか。死してなお苦しまなければならないのか。闇に呑まれなければならないのか。  「なんで、」  斬らなければならないのか。神は非情だ。しかし雪治は神子で、神の使いとしてその使命を遂行しなければならない。ごめん。心の内で呟いた。  「どうして……」  今度は童子が疑問を零した。その短い言葉の中に、それらが今まで見てきた全ての理不尽への怨みが詰まっていた。  「うん、世は不条理だね」  刹那、ほんの刹那、雪治が目を伏せたその瞬間だった。めきめき、べきべき、と猟奇的な音を立ててそれらが互いに引き寄せ合い混ざり始める。  「う゛っ……!」  童子の姿だったものがぐちゃぐちゃの肉塊へと変貌する様子に、雪治は思わず嘔吐(えづ)き口を覆った。雪治は剣術の達人だが戦のない環境で育ったし、医者や刑事でもないし、霊力で斬った妖からは血も出ない。端的に言ってものに耐性がないのだ。  「ぅ、おぇ゛……っ」  成人男性数名分ほどの体積の肉塊から幼子の手足、ところどころ目や鼻、口なんかも表出しているは、雪治が吐き気を催すのには充分だった。空腹状態で良かった、と雪治の中の何処か冷静な自分が考える。先程とは違う理由で涙ぐむ瞳、微かに震える手。それでも雪治はに向かって鋒を向ける。  「でも、子供の姿を斬るよりマシだ」  そう思わなければやっていられない。さすがの雪治も今回こそは本気で神をぶん殴りたくなった。  木刀を正眼に構え、呼吸を整える。だが対峙してを見据えるとまた、空の筈の胃の中から何かが迫り上がって来る。下唇を噛む。己の未熟さを感じながら、どうにか集中しようと呼吸を整えるが、あまりに醜悪な見た目と肉塊が動く度に聞こえる不快な音が雪治の集中を妨げる。  「いやだ」  雪治が息を呑んだ。悲しみに満ちた幼子の声だった。声につられて肉塊を見据える。黒い、あの帯の妖が纏っていた靄よりももっと、濃く深い黒。全てを飲み込んでしまいそうな黒。人の心にある希望や幸福を絶望へと塗り替えてしまうような黒。そんな黒い影のようなものが肉塊の周囲に纏わりついていた。  が右へ動けば肉塊も右へ。左へ動けば左へ。その度にぶち、ぐちゃ、と不快な音がする。あのが操っているなら、影さえどうにかすれば或いは。雪治がそう考えていると、肉塊は案外と素早い動きで屋根を越えるほどの高さまで飛び上がり、雪治を目掛けて落ちてきた。  「うわっ、マジか!」  飛び退いて避けたものの、地面に落ちた肉塊は軽く地鳴りを起こす程の衝撃で、雪治は顔を引き攣らせた。こんなものを食らったら流石にひとたまりもないだろう。だけを何とかしようなどというのは甘い考えかも知れない。可哀想だが彼らごと斬るしかないか。雪治がそう思い直した瞬間だった。  「た、すけ、て……」
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