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もうひとつの家族
布越しではなく直接がいいとねだるおりんを何とかなだめ、雪治は現代の自宅へと帰ってきた。彼女の焦りを利用してしまったような気もするが、お陰であの醜悪な肉塊の様相やそれを斬った感触が少し薄れてくれた。英雄色を好む、というのはこういうことなのかも知れないと思った。手に残る肉を斬った感触を、生きた人肌で忘れたいのかもわからない。
風呂を済ませ、縁側に座る。いない間に降ったのだろう、庭の紫陽花が濡れているのが微かに見える。先日、友人の志信から貰った酒をぐい吞みに注ぐ。その水面が凪いでいくのを見ていると、次々に家に棲む"人ならざるもの"たちが寄ってくる。
「お、いいもん飲んでるな」
「よい匂いじゃ」
「こりゃ上等な酒じゃな」
「独り占めか雪治?」
「我にも寄越せ」
ふ、と息が漏れた。一層肩の力が抜けて気が楽になる。雪治は手元の酒をぐいと一気に飲み干し、酒瓶を持って彼らに振る舞う。旨い旨いと宴会になる彼らの中心で、ひとり月のない夜空を見上げる。
おりんに貰った匂い袋と、彼女との布越しの口づけを思い出す。あの時、布越しだったにも関わらず、おりんとの間に何か繋がりのようなものができた感覚があった。
「俺が……縛っちゃったのかなぁ……」
やはり口づけなどするべきではなかったのかも知れない。罪悪感と後悔が押し寄せる中、しかし同時に、これで本当にいつかこの現代でおりんに逢えるのではないかと期待もしている。
「何かあったのか」
「蜻蛉殿」
立葵の匂いがする蜻蛉が雪治の肩にとまり声をかけた。蜻蛉殿、などと仰々しい呼び方なのは他の付喪神たちがこの蜻蛉をそう呼ぶからだ。雪治は彼を一瞥して、江戸でのおりんとの出来事と繋がりを感じたことを話す。
「ふむ……構わんのではないか」
「え?」
「その女子と雪治は互いに好ましく思っているのだろう?なら構わんではないか」
「でも……俺のせいでおりんさんを縛り付けてしまったかも」
「たかが神子風情が神にでもなったつもりか?」
眉を下げ足元を見る雪治に、蜻蛉が声を低くし語気を強めた。しかしその裏にあるのは確かな慰めのようだった。雪治が幼子のような顔を蜻蛉に向ける。
「ふたりの間に繋がりができたとすれば、それは神がそうしたのだろう。貴様にそのような力はない」
「そっか……そうだよね、俺そんなに万能じゃないや」
「何でもかんでも背負うな。傲慢に映るぞ」
傲慢。そうだ、誰彼構わず助けられるわけじゃないと実際に目にしたあの日、そこまで傲慢じゃないつもりだと自分で言ったじゃないか。ふ、と笑みがこぼれた。肩の力が抜ける。蜻蛉が雪治の肩から飛び立ち、寝間へと去っていった。
雪治は静かに立ち上がると、いつの間にやら別の瓶まで持って来ていた"人ならざるもの"たちの手から酒瓶を奪い、ぐい吞みを傾ける。その手からまた酒瓶が奪われる。ぽす、と雪治の頭に大きな手が乗せられた。
「蘇芳にい」
「楽しみじゃねえか。その女子、本当にこの時代に生まれているかも知れないぞ。見つけたら紹介しろよ。ま、向こうに俺が見えるかはわからんが」
「蘇芳にい……」
豪快に笑って瓶ごと酒を煽る蘇芳に、雪治は複雑な視線を向けた。楽しみだなんて軽々しく言うこと、おりんの気が変わっている可能性も考えずに紹介しろと笑うことには呆れる。けれど半鬼ゆえに、たとえ雪治が誰かと新たな家族をつくっても、その者たちから蘇芳の存在は見えないかも知れないという孤独感や疎外感への憐みもある。そしてそれを笑い飛ばせる強さへの憧れも。
けれど、全てが雪治のよく知る蘇芳だ。彼の飲みっぷりを囃し立てる皆も、雪治のよく知る者たちだ。雪治にとっては生まれた時から傍にいるもうひとつの家族だ。帰ってきたのだと、家にいるのだと安堵する。
「おやすみ!」
雪治は寝間へ駆けていった。その顔はかけっこをする童のような満面の笑みだった。
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