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私の部屋の中で、ただひとり働いている壁時計が、8時を刻んだ。お父さんとお母さんの仕事が始まる時間——私が罪悪感から解き放たれる時間だ。
空の食器を持って一階に降りた私は、無人の台所で、それらを黙々と洗う。
洗い物は好きだ。私の心にこびり着いたヘドロは落とせないけれど、お皿のソースは綺麗に流されてくれるから。
ピカピカのお皿から目線を外すと、腰くらいの高さの棚が目に入った。何が入っているのかも分からない。問題はその上に置かれていたものだ。
真っ赤な着物に身を包んだ私。その両脇には優しい笑顔の両親。七五三の写真だった。
この時の両親は信じていたはずだ。私が普通に学校に行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に孫を産むって——
私は家を飛び出した。部屋着のまま、乱れた髪のまま。とにかくあの写真から逃げなきゃって、心臓が訴えてきたんだ。
久しぶりの日光浴は、私には眩しすぎた。細めた目のまま、力尽きるまで、がむしゃらに走った。
私の足が止まったのは橋の上だった。浅い川は、周囲の石を撫でるように、穏やかに流れている。生き物の呼吸がないから、自然の音が充分に味わえる。この音が好きで、私は、登下校にこの道を選んだ。そして歌詞を書いた……まだ歌を愛していた時に。
橋から川を見下ろして、私は溜息を吐く。
「空蝉の 人は数多 呼吸すれど 我が耳はただ 君に揺られん」
綺麗な音だった。私の陰鬱な吐息を慰めるように、私の右耳に入り込んできた。
声の主は、爽やかな短髪を携えていた。私より大人っぽいけど、高校生にしてはまだ幼い。青色のパーカーが秋空に馴染んでいる。私と比べて、肩幅も骨格もしっかりしている。
「驚かせたかな、ごめんね」
主は眉をハの字にして微笑む。チェロみたいな声音だな、と思う。
「自分、和泉っていうんだけど。君は?」
私の口からは、か弱い息しか出てこない。和泉さんは怪訝な顔になる。
桃色のスマホを取り出した私は、メモ帳アプリを開いて、文字を打ち込む。
『紫香楽小鳥。私、話せません』
画面を見た和泉さんは眉をぴくっとさせた。
「話せない……? そんなはずは」
『自分の声が嫌いになったんです。そうしたら声が出なくなりました』
和泉さんは、黒目の水面を揺らした。しばらく考え込む仕草をした後、私に向き直って、にこりとはにかむ。
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