5人が本棚に入れています
本棚に追加
「ねえ、一緒に歌わない?」
私の口がポカンとした。鏡がなくても分かる。
たった今「声が嫌いになった」って言ったばかりでしょう?
和泉さんは両手をあわあわと動かす。
「歌うっていっても、songじゃなくてね! 和歌だよ、和歌。自分もさっき歌ったでしょ」
和泉さんはパーカーのポケットに手を入れて、一本の筆と、お札みたいな紙を取り出した。
「自分と一緒に歌おうよ、これで」
和泉さんがあまりにカラッと言ったから、私は場の空気に流されて、紙と筆を受け取ってしまう。
「君ならきっと、いい和歌を歌えるよ」
『私、和歌なんて書いたことないです。歌詞ならありますけど』
「それなら大丈夫だよ! 和の歌って書いて和歌なんだから!」
和歌って、そんなに簡単なものじゃないだろう……というのは、まったく和歌を触っていない私にも分かる。
「明日、君の歌を聞かせてくれる?」
和泉さんは、私の右手を両手で包んだ。私より一回り大きくて、温かい手は、凝り固まった私の心臓を、ドクドクとほぐして、熱くした。
コクリと頷いた私を見て、和泉さんは口角を上げた。ちらっと見えた八重歯があまりに白い。私の肌は朱色に染まっていった。
*
和泉さんと別れた私は、家に帰って、自室という名のシェルターに入った。
学習机に座った私は、和泉さんから貰った紙と筆をコツンと置く。
(和歌って、どうやって書けばいいんだろう……決まりごとがあった気がする。何とかコトバ、だったと思うけど)
スマホを手にとって「和歌 書き方」で検索してみる。
(ああ、そうだ。枕詞だ。思い出した)
和歌について調べるほどに、和泉さんは何て軽いことを言ってくれたんだと思う。やっぱり、素人がちょちょいと書けるようなものじゃない。
それに。
どうして私に和歌を書かせようと思ったんだろう。誘うにしたって、初対面で、しかも声の出ない女を選ぼうとする?
……だけど。
こんな私に声をかけてくれたのが、まったく嬉しくなかったかと言われたら、それは嘘になる。
一個の言葉では表現しきれない。こんな複雑な感情を表現するために、歌がある。プラスもマイナスも、両方を受け容れてくれる世界が、歌だった。
和泉さんに対する不思議な心地を、私は歌にしたいと思った。押し入れから書道の道具を引っ張り出した私は、ひとつの和歌を綴った。
『あしひきの 山の尾似たり 我が足は 泉に浸かり 熱く浮かれる』
最初のコメントを投稿しよう!