声なき和歌

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「ねえ、一緒に歌わない?」  私の口がポカンとした。鏡がなくても分かる。  たった今「声が嫌いになった」って言ったばかりでしょう?  和泉さんは両手をあわあわと動かす。 「歌うっていっても、songじゃなくてね! 和歌だよ、和歌。自分もさっき歌ったでしょ」  和泉さんはパーカーのポケットに手を入れて、一本の筆と、お札みたいな紙を取り出した。 「自分と一緒に歌おうよ、これで」  和泉さんがあまりにカラッと言ったから、私は場の空気に流されて、紙と筆を受け取ってしまう。 「君ならきっと、いい和歌を歌えるよ」 『私、和歌なんて書いたことないです。歌詞ならありますけど』 「それなら大丈夫だよ! 和の歌って書いて和歌なんだから!」  和歌って、そんなに簡単なものじゃないだろう……というのは、まったく和歌を触っていない私にも分かる。 「明日、君の歌を聞かせてくれる?」  和泉さんは、私の右手を両手で包んだ。私より一回り大きくて、温かい手は、凝り固まった私の心臓を、ドクドクとほぐして、熱くした。  コクリと頷いた私を見て、和泉さんは口角を上げた。ちらっと見えた八重歯があまりに白い。私の肌は朱色に染まっていった。  *  和泉さんと別れた私は、家に帰って、自室という名のシェルターに入った。  学習机に座った私は、和泉さんから貰った紙と筆をコツンと置く。 (和歌って、どうやって書けばいいんだろう……決まりごとがあった気がする。何とかコトバ、だったと思うけど)  スマホを手にとって「和歌 書き方」で検索してみる。 (ああ、そうだ。枕詞(まくらことば)だ。思い出した)  和歌について調べるほどに、和泉さんは何て軽いことを言ってくれたんだと思う。やっぱり、素人がちょちょいと書けるようなものじゃない。  それに。  どうして私に和歌を書かせようと思ったんだろう。誘うにしたって、初対面で、しかも声の出ない女を選ぼうとする?  ……だけど。  こんな私に声をかけてくれたのが、まったく嬉しくなかったかと言われたら、それは嘘になる。  一個の言葉では表現しきれない。こんな複雑な感情を表現するために、歌がある。プラスもマイナスも、両方を受け容れてくれる世界が、歌だった。  和泉さんに対する不思議な心地を、私は歌にしたいと思った。押し入れから書道の道具を引っ張り出した私は、ひとつの和歌(うた)を綴った。 『あしひきの 山の()似たり 我が足は 泉に浸かり 熱く浮かれる』
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