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次の日。朝のルーティンを終えた私は、昨日と同じ橋へ向かった。
そこには、茶色のカーディガンを靡かせる和泉さんがいた。ジーンズのポケットに手を入れて、すっと立っている姿は、ミュージックビデオみたいだった。
私に気がついた和泉さんは、右手で手招きをした。
「来てくれたんだ。ありがとう」
和泉さんの声は、精巧な楽器のように綺麗だ。私もこんな美声を持っていれば、合唱コンクールの悲劇は起きなかったんだろうな。そう思うと、私の心に灰色の雲がかかる。
「ね、和歌、書いてきてくれた?」
和泉さんの瞳は黒真珠だ。秋晴れの光を反射して、きらきらと輝いている。
私は、おずおずと紙を差し出した。落ち着きのある微笑みで受け取った和泉さんは、じっと私の和歌を見る。
「……真面目だね。ちゃんと枕詞を使うなんて。自分、最初のうちは、ただ音の数を合わせただけだったよ」
和泉さんは頭をかいた。苦笑いが静かになるのと同時に、今度は憂いが現れる。
「君も重荷を背負ってるんだね。足を引きずるくらいの」
私は何だか気恥ずかしくなる。私の書いた内容が伝わったって分かったから。
「ねえ、この『泉』って、自分のこと?」
和泉さんは堂々と訊いてきた。私の中に、さっきとは別の恥ずかしさが生まれる。
だって、私の和歌を要約すれば「重々しい人生を歩んでいるけれど、和泉さんに和歌の世界に引っ張られた時、胸が熱くなりました」って意味だから。
「はははっ、嬉しいな」
『揶揄わないでください』
「そんなこと、してないよ。本当に嬉しいんだ」
和泉さんの顔が柔らかくなった。
「いきなり声かけて、変な人だと思われたかなーって、心配していたから」
その言葉で、私は訊きたかったことを思い出す。
『和泉さんは、どうして私に声をかけたんですか』
「知りたい?」
私がコクコクと首を縦に動かすと、和泉さんは、人差し指を私に向けた。
「それじゃあ、先に教えてほしいな。どうして歌が嫌いになったのか」
和泉さんの眼差しには、一切の無駄がない。ただただ真っすぐに、私を貫いた。
『教えたら、私の質問にも、答えてくれますか』
「もちろん」
私は少し迷った。むしろ、少しの間で済んだのが、自分でも意外だった。和泉さんは、私の心を解す、天性の才能があるのだと思う。和泉さんが魔法使いだと言われたら信じてしまいそうだ。
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