声なき和歌

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 ——和泉さんと出会って一か月が流れた。テレビでは冬支度を促しはじめ、道行く人の服が厚くなっていく。 「……季節の変わり目って、歌うのが難しいけど、楽しいよね。その季節真っ盛りの時って、もともと魅力や特徴があるから、誰でも風情あるように聞こえちゃうし」  橋に身体を預ける和泉さんは、切れ長の目で遠くを見る。和泉さんの苦悩を聞いたあの日から、和泉さんの瞳に憂いを感じるようになった。 「どうしたの、そんなに不安そうな顔をして」 『和泉さんが悲しそうだから』 「ははは。実は、今日はちょっと用事があってさ。午前中には帰らないといけないんだ。悲しそうに見えるのは、そのせいかな」  橋から身体を離した和泉さんは、私の頭を二回撫でた。和泉さんの手はいつだって温かいけれど、いつしか自責の念を生むようになった。和泉さんは、こうして私を慰めてくれるのに、私は何もできていないって思うようになったから。  和泉さんは手をふって、悠然と歩き去った。茶色の背広を無言で見送る。和泉さんが曲がり角に消えたところで、私は地面の違和感に気がついた。  紺色のハンカチが、ポツリと佇んでいた。  それを拾った私は、慌てて和泉さんを追いかける。私たちは連絡先の交換をしていなかった。だから、ハンカチを届けるには、和泉さんの後を追うしかない。  シャッター商店街を歩く和泉さんを引き留めようとするけど、私にはその力がない。和泉さんの名前を呼ぶことができないんだから。  私が小走りをしているからか、少しずつ距離を詰めることができた。だけど、あと少しで手が届きそうというところで、横断歩道が私たちを引き離す。和泉さんが渡り切り、私が横断歩道に突入する直前に、信号が赤に切り替わった。  私はヤキモキして地団駄を踏む。和泉さんは右に曲がり、姿を消してしまう。  やっと信号が青になって、私は一目散に飛び出す。和泉さんと同じ道を右に進み、住宅街に入る。  幸い、和泉さんの姿を見失うことはなかった。和泉さんは一軒家の前に立っていた。あそこが和泉さんの家なのかな。  閑静な住宅街には、和泉さん以外の人はいない。和泉さんは呼び鈴に手を伸ばす。  私が和泉さんに手を伸ばすより前に、家から男の人が出て来た。私は石壁に隠れてしまう。その人は、夜の海のような不気味さを纏っていたから。私の背中をゾクゾクとさせるには充分すぎた。  男の人は和泉さんを殴った。あまりに自然な動作だったから、私は驚くことも、怖がることもできなかった。
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