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男の人の二発目の拳で、和泉さんは地面に転がった。男の人は和泉さんの襟元を掴み、ずるずると家の中に引きずり込む。
待って。
誰か。
助けて。
私は叫んだ。だけど、そのどれもが、ただのか細い息にしかならない。何の音にもならないから、当然、目の前に流れるPVを止めることはできない。真っ黒な目で項垂れる和泉さんは、壊れた人形のようだった。
しばらく呆然としていた私だけれど、ハッと我に返って、スマホを開く。交番に電話をかけて、目の前で起こったことを説明する。
「…………」
「もしもし? どうしたんですか?」
「…………」
「もしもし!?」
電話の向こうの怒気で、私は自分が声を捨てていたことを思い出した。
私は電話を切って、その場を走り去る。
……私は助けられない。
誰かの助けを呼ぶことすらできない。
少し考えれば分かることだった。
私より一回り大きい「だけ」の和泉さんが、私と同じように、平日も休日も関係なく、日中から出歩いている異常さを。
それに気がついていれば、もっと早く、和泉さんを助けることができたんじゃないか?
私に声があれば、和泉さんを救えたんじゃないか?
……どうして私は声を捨てたんだろう。
学校で揶揄われたなんて理由で、大切な人を救う手段を自ら失うなんて。
家まで走っている間、私は何度も声を出そうとした。だけど、一切の音にならない。ふー、ふー、という、情けない息しか出てこない。
私の涙が風で流れる。
自分の部屋に飛び込んだ私は、ベッドに横になり、自分の喉元をつかんだ。
憎い。憎らしい。何の音も出せない自分が。
あなたを助けるためならば、どんなに汚い音だろうと構わない。
あなたへの感謝を、思いを、救いたいという気持ちを、音にしたい。……
カーテンが夕焼けを透かした時分、私はがばっと起き上がった。
机に腰を下ろし、札のような紙を置き、筆を手に取る。
(……声がないなら)
私は、これで、歌うんだ。
和泉さんが教えてくれた「声なき和歌」で。
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