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お引越し?
ランガスは自宅へ戻ると、執事であるナーマスを呼んだ。
「お呼びでしょうか、坊っちゃま?」
「“坊っちゃま”はそろそろやめて欲しい」
私の返答に、ナーマスは笑顔で答える。
「そうですね…そろそろ止めた方が良いですかね?愛しいお嬢さんの前で“坊っちゃま”と言うには宜しくないですからね」
ナーマスの言葉に、私は笑う。
ナーマスは元々父の執事だった。
しかしナーマスが高齢になってきた事。父は宰相の職に就いている為多忙であり、ナーマスも、父の執事の職に就かせる為に育て上げた自分の息子にその地位を譲った。
ちょうどそのタイミングで、私が自宅から自立した。
ナーマスは『坊っちゃまに着いて行った方が面白そうですし』と言い、進んで私に着いてきた。
私自身は執事など必要はなかったが、幼き頃より知っている者が立ち去るのは寂しい気もした。そんな訳で受け入れた。
「…そう…その愛しいお嬢さんについてなんだが…、ちょっとナーマスにも手伝って欲しい事があるんだ」
私の言葉に、ナーマスは長年の執事の経験からの勘が働いたのか、ニヤリと笑う。
「楽しそうな事は大好きですよ、坊っちゃま」
◇◇◇◇◇◇
ミリーは書籍店にて、いつものように写本の作業を行っていた。
その日の本は『葡萄の森の物語』。
荒れた山頂に程近い土地。そこは作物の実りも少ない土地。
そこには元々葡萄の森があった。
しかし天災により森も朽ち、残った一本の葡萄の樹が最後の実をつけた。
葡萄の妖精はその樹の袂で、正に命が尽きる寸前だった。
そして妖精を慕い、最後の一本の葡萄の樹を世話していた優しい青年に妖精は葡萄の種を渡し、その場で儚く散った。
青年は心から悲しみ、その葡萄の種を痩せたその土地に埋めた。妖精の事を想いながら。
心優しき青年の頬に行く筋もの涙が流れ、涙は土地に落ちる。
すると種を埋めた土地から、噴き出すように光が溢れた。
そして葡萄の種は発芽し、幼木へと姿を変えた。
しゃがみこんで呆気に取られた青年の前には、美しき妖精の姿があった。
二人は手を取り合い、愛を誓う。
そうして葡萄の森は2人の手によって取り戻された。
…という話だ。
童話ですからね。まぁ色々都合の良い夢のあるお話ですよ。
でも童話というのは夢がある話の方が、個人的には好き。
童話は油断してたら残酷なお話の時もあるからね。
私はそんな事を考えながら写本をしていた。
そこに自宅のアパートの大家さんでもあるザボールさんがやって来た。
「あら、ザボールさん。珍しいですね」
「ミリーちゃんも元気そうだね。久しぶり。」
杖をついてやって来たザボールさん。椅子を進めるとそれに座った。
「どうされたんですか?」
「…いや、実は…」
ザボールさんは言う。
ザボールさんは御歳70歳。奥さんに先立たれ、お子さんとは離れて暮らしていた。
高齢になってきたので、ザボールさんは息子さんの暮らす土地に引っ越すようになったとの事。
そしてその為にアパートを売った。
新しいオーナーの意向で、アパートの修繕が行われる事。
その間は、オーナーが用意してくれる所を仮住まいとして欲しい事。その間、必要な荷物を持って出ていれば、大きな荷物は預かってくれるらしい。
そして家賃や条件の変更は無い事。
申し訳なさそうに話すザボールさんに、私は笑顔で答える。
「そんな気にしないでください。良かったですね、息子さんのお家に行けるなら安心です」
ザボールさんにも良い話だし、私も家賃や条件が変わらないなら異論は無い。
ちょっと引越し作業があるけど、大きな荷物を預かってくれるということであれば、作業量が全然違うと思う。
「…それでね、ミリーちゃん。オーナーの遣いの方がそろそろ…あぁ、来た。挨拶に来るって言ってたんだよ」
後ろを振り返るザボールさんの視線に釣られ、私もそっちを向く。するとスーツ姿でグレーの頭髪の老齢の男性がそこにいた。伸びた背筋や立ち振る舞いに品位を感じさせる、素敵な紳士だ。
「こんにちは、美しきマドモアゼル。初めてお目にかかります。ナーマスと申します」
老齢の紳士は、私の手を取り手の甲に唇を寄せた。触れることはなく、すぐに離された。
「初めまして。申し訳ありません、本来なら此方からご挨拶をしなければいけない立場でありますのに…」
私はその場で立ち、軽く頭を下げた。カーテシーはこの場ではしなかった。
「いやいや、私はあくまでも主人の遣いの者。お気になさらずに。今日の夜、良ければ我が主人より仮住まいについてお話がしたいとの事でした。そしてその時にディナーにもご招待させて頂ければと…」
ナーマスさんはそう言うと、蜜蝋で封緘された封書を私に手渡した。
ん?この封緘…見覚えある…。
この封蝋…星に蔦が巻きついたコレ…。
じっと封蝋を見つめる私に、ナーマスさんが笑った。
「ご存知のお方で間違いございません。」
やっぱり!!これランガス様が使う印章だ!!
真ん中にでっかいお星様があって、半分は蔦が巻きついている。もう半分は、小さい星がもう1つある。この星にも蔦が少し絡んでいる。
「本日の夕方、お迎えに上がるとの事ですので、急なお誘いで申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします」
ディナーが確定しました。
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