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真実がない
「し、真実がないって……どういうことですか?」
おもむろに、正面から容赦なく突きつけられた言葉に、胸の内で戸惑いや混乱や憤りなどの様々な感情が胸の内で激しく交叉する。
しかし花月さんの表情に私を混乱させようとするような意図は見えず、むしろ私の内側の奥底までを見透かすようにまっすぐ向けられた瞳には、逸らしがたい厳しさがあった。
ぞっと背筋に冷たい汗が流れた。
「私、ちゃんと本当のことを話しています! 父のことも、母のことも、私が人形を生きているように思っていることも、全部本当に正直に――」
「……そうでしょうか」
私の言葉に被せるように遮った花月さんが、僅かに眉を寄せる。
「茉莉枝さんはまだ、砂糖菓子のように甘い思い出だけしか味わっていません。思い出さねばならないことが、まだあるはずです」
「思い出さねばならないこと……?」
――キャアァァァァ! キィィィィィ!
「ッ……!」
また、あの狂乱した甲高い声が耳の奥に甦ってきた。
もしかするとあれは、エレナに暴虐を振るう誰かのものではなく、エレナ本人の声なのだろうか。
人間のように悲鳴を声にして上げることさえできない、人形の叫びなのだろうか。
思わず塞いだ耳の奥で、夢の中の声が追い掛けてくる。
――まぁぁぁりぃぃぃえぇぇえぇええぇええええ!
最近ずっと、何度も頭の中で繰り返される声。
エレナ。エレナごめんね。
胸に迫るほどの罪の意識に硬く瞼を閉じた、その時だった。
ふっと周囲の灯が消えた気配がした。
「え、なに」
目を閉じても瞼を透かしてくるはずの、店内の灯が落ちた。
慌てて目を開けてみれば、目の前は一面の暗闇だ。
停電? 私の目がおかしくなった?
いや違う。これはそんな現実的なものではない。
何処か本能的に分かった。
「まぁぁぁぁぁりぃぃぃえええええええええええ!」
暗闇の奥から、微かな声が聞こえてくる。
今度こそ頭の中ではなく、しっかりとした音として聞こえてくる。
こっちへ向かって来ている。
エレナがこっちへ来る。
ここは、あの夢だ。
あの夢の中の暗闇が、不思議なことに現実として私たちを取り囲んでいる。
「か、花月さん!」
「問題ありません」
助けを求めるように腰を浮かしながら暗闇の中で周囲を見回すと、変わらずテーブル一つ隔てた距離に座っているらしい花月さんの冷静な声がした。
「問題ありますか? 貴女が本当にエレナを愛しているのなら」
「私が……エレナを……?」
「その程度のものなんですか、茉莉枝さんの愛は」
「え……?」
「相手の見た目が変わり果てていたり、こちらを怨んでいるかもしれないという理由さえあれば、容易く失われてしまう程度のものなんですか?」
――本当にエレナを愛しているのなら。
花月さんに言われた言葉を改めて胸の内で繰り返した途端、胸の奥にわだかまる何かが胃の奥まで落ちた気がした。
確かにそうだ。
言われてみれば、恐ろしいことなど何もない。そんな実感が湧いてくる。
あれがエレナなら。
どんな姿になっていても、どんな感情を私に向けていても、エレナはエレナだ。それでいいのではないか?
エレナがああなってしまった背景を、少なくとも私は思い出したのだから。
エレナの怒りの理由も、ちゃんと思い出したのだから。
花月さんはそこに真実が無いというけれど、私がエレナを愛している気持ちだけは真実本当のことだ。
それは誰にも否定させはしない。私自身が一番よく分かっている。
「いいえ!」
迷いなく告げた言葉に、花月さんが声もなく微笑した気配がした。
「でも花月さん、この暗闇は……」
問い掛けると、シィッと花月さんが沈黙を促すように人差し指を立てたようだった。
「大丈夫。悪いものではありません。――不思議ごとを解き、和合に還す風車が回り始めたんです」
少し笑みを含む穏やかな声で教えられた時、それが何を指すのか、特に説明されなくても私には分かった。
不思議ごとを解き、和合に還す風車。
卍の字だ。
お店の看板に描かれた卍の風車が、くるくると回る様子が見える気がする。
「落ち着いて、さぁどうぞお茶を」
暗闇の向こうからは、依然としてエレナの声が聞こえてくる。
少しずつ、少しずつ近付いている。
こちらへ向かってくる彼女の気配を感じる。
「……落ち着いて」
彼女の気配も十分に感じているのだろう花月さんの声が、端然と重ねられた。
その静かな声に力強く勇気付けられ、私は浮かせた腰を椅子に降ろした。
「茉莉枝さんは、前へ進みたいんでしょう?」
――前へ進みたい。
改めて問われて、ふと隆宏の顔が浮かんだ。
私がここに来たのは、連日の悪夢という不思議な出来事の原因を知りたかったためだ。
原因を知って、自分と向き合いたい。
自分自身の記憶を、きっちりと明確に理解したい。
私がこの先も前向きに生きていくために。
一緒に歩んでいきたい恋人のために。
もちろん彼以外にも、私の側にいてくれる人たちのために。
「はい」
頷いた私に、花月さんも頷いてくれた気配がした。
「おそらくは、目を背けたくなる思い出が見えてくるでしょう。ですが茉莉枝さんが本当に人形とご自身の心をお救いになりたいのであれば、そこは避けて通れません。――真実は基本的に苦いものです」
暗闇に目が慣れるように、徐々に花月さんの姿がぼんやりと浮かんできた。
気のせいだろうか。花月さんの周囲が輪郭を縁取るように白く発光している。
じっとりとした白い光に浮かび上がるその姿は、美しいというよりもどこか荘厳な気配をまとい、まるで人の枠から外れた神聖な存在のようにさえ見える。
だがそんな白い光の中に時折、炎のような不穏な赤い影がチラチラと掠めていた。
炎が掠める度に、その中に平安時代のように御簾を巡らせたお屋敷や、ぞっとするほど碧い目をした黒髪の男の人の顔、それから粗末な牢の中から覗く庭園の風景が断片的に浮かんでは消えていく。
それは花月さんもまた、私たちと同じように――その光景に纏わる何かとても重い、炎に取り巻かれるような苦しみを抱えていることを示唆しているふうだった。
もはや私は、花月さんをこの世の存在などと思ってはいなかった。
先程、彼は「あなたがた人間は」と言ったのだ。「此方はもう全部分かっているのに」とも。
だが別段そのことに対して恐怖を感じることは無い。
花月さんが何者であろうと、彼は本気で私の苦しみに向き合ってくれている。
そのことがこの店の対価に繋がるとしても、心から私を案じ、本気で私の問題に取り組んでくれているのが分かるから。
「茉莉枝さん」
「は……、はい!」
思考を打ち切るように呼ばれ、思わず背筋が伸びる。
「今はご自分のことを」
そうだ。
そうだった。
「はい……」
花月さんが言っていた真実。それは一体何なのだろう。
もし忘れていることがあるというなら、何かを間違って覚えているというなら、しっかりと本当のことを思い出したい。
思い出さなければならない。
「お茶の苦みを味わってこそ、砂糖の甘味も引き立つというもの。まずはどうぞ一口」
言われるままに両手で茶碗を取り、一口飲む。
両掌の中の茶碗は温かく、そこに三分の一ほど注がれているお茶は、少しだけ唇に熱かった。
口に含んだ途端、濃茶のねっとりした苦みと風味が喉の奥にまで広がって、舌に沁み込んでくるようだ。
かなり苦いけれど、抹茶の苦みは好きなので、単純に美味しいとも思う。
しかし、飲み干すことが恐ろしくもあった。
これを飲んだら、一体どんなことを思い出してしまうのだろうと。
それでも私は、本当にエレナと私の心を救いたい。
そのためなら、たとえ何が見えようとも構わない。
続けて二口、三口と飲む。口の中で砂糖の甘さとお茶の苦みが混ざり合い、やがてお茶の苦みが全てを覆ってゆく。
茶道の時にそうするように頭を反らして飲み干して、ふうっと一息ついた。
茶碗から顔を上げたそこは、子供の頃に住んでいたマンションの子供部屋だった。
もうそのことに戸惑いはしなかった。
見せて欲しい。
果たしてここに、どんな真実があるというのだろう。
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