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真実2
葛藤している間にも、子供部屋から何か話し声が聞こえてきた。
息をひそめるようにして、私は身を縮めた。
この先を見たくない。聞きたくない。でも、向き合わなくてはいけない。
穏やかな様子だったものが、突として、幼い私の何かに異を唱えるような甲高い大きな声が上がる。
「だっていやだもん! それはそこに置いておくの!」
「片付けなさい!」
「やだ!」
「親に向かって何よその目は!」
一瞬の沈黙の後、肌を叩くような音がし、火が付いたような幼い私の悲鳴が上がった。
息が苦しい。
尋常ではない幼い私の悲鳴に続き、プラスチックの玩具か何かが激しく崩れて打ち合うような音が聞こえた。
続けて絶叫するような子供の声で、謝罪と懇願が繰り返される。
その間にも、肌を打ち付ける音が、何度も何度も大きく響いた。
母が怒鳴る。
「謝るなら最初から言われた通りにしろ、バカ!」
存分に脅しの意図も込めているかのような、男のように低めた奇妙な作り声で。
吐き気がする。
どうしても動こうとしない脚を引きずるようにして子供部屋に向かうと、そこには髪を振り乱した母が、幼い私の腕と髪を両手で掴みながら引きずり回していた。
周囲には散乱した玩具の食器やお菓子、そして床に投げ出されたエレナがいる。
そして母は呪詛のように私の名を叫んでいた。
「まりええええええええええええ――マリエエエエエエエエエエエ――まぁぁぁりぃぃぃえぇぇえぇええぇええええ――」
夜ごとの悪夢そのままの声に、ひぃっと喉が鳴った。
あれはエレナの声ではなかった。
あれは――あれは、母の声だったのか。
膝の骨が砕けたかのように脚から力が抜け、その場にへたり込む。
怖い。悲しい。苦しい。痛い。助けて。
次々に胸の内に浮かんで来ては散らばる感情は、そのまま目の前の幼い頃の私の感情だ。
助けて。エレナ助けて。
床に投げ出されたエレナは、変わらぬ穏やかな笑顔のまま、虐待の光景を青いガラスの瞳に映している。
それでも――今の私には分かった。
彼女が私を案じていることを。
やめてと母に訴え掛けていることを。
例え顔だけは笑みのままであっても。
私を虐待している母の目は、正気ではなかった。
日々募る父への愛憎と怒りは、父があまり家に帰らないせいで本人にぶつけることがなかなか叶わない。
張り詰めて爆発しそうな苛立ちを向けるには、自分よりも弱く手近で、自分が指導せねばならない存在で、面影が父に似ている私が最適だったのだろう。
いけないと分かっていても、子供が悪いことをしたという前提があれば、しつけという名目で虐待の事実に正義の覆いを被せて、自分自身からも隠すことができる。
苦しそうでありながら、どこか酔っているように心地良さげなその表情は、母というよりは女だった。
ある程度の財力があるだけに、おそらく外に愛人を何人も作っていたのだろう不実な父は、それでも私にとっては逃れようもなく親であり家族だったが、母にとっては違う。
彼女にとっての私の父は、家族である前に伴侶であり、男であったのだから。
私は、なすすべなくその光景を見詰めている他になかった。
まるで誰かに虐待されるエレナを助けることもできずに見ているしかなかった、幼い頃の私のように。
「花月さん……花月さ……」
両手で顔を覆いながら、救いを求めるように花月さんの名を呼んだ。
今の私が縋れるものは、彼しかいない。
花月さん、もう思い出しました。
思い出さなければならない苦い真実とは、この光景でしょう?
父のもう一つの顔も、母の苦悩も狂気も、思い出しました。
エレナを虐待していたのも母でしょう?
それとも、自分がされていた虐待を、エレナがされていたことと勘違いしていたんですか?
もう分かりました。もういいですから。もうそこへ戻らせてください。
助けて。助けに来てよ、花月さん。
「反省しなさい! 謝るまで口を利いてあげない! 一生無視するかもしれない!」
火が付いたように泣いている幼い私を放り出した母は、それだけを言うと、子供部屋に毅然と背を向けてキッチンへ行った。
「待ってぇ! まってぇ! まってぇ! ママ、ママ、ママぁ!」
床に倒れ伏した幼い私は、這っていくように母を追い縋ろうとして手が届かず、空を切った手を握り込んだまま蹲って泣き続けている。
私はそれをただ茫然と見つめていた。
水を使い始める音が子供部屋に微かに聞こえてくる。
穏やかに燦燦と差し込む柔らかな日差しの中、子供部屋には雨音のような水音と、泣きじゃくる幼い私の声だけが満ちてゆく。
ほんのさっき見た、あの可愛らしいままごとのお茶会と同じ部屋とは思えない、重い湿り気を帯びてしまった部屋で。
エレナは幼い私を見ていた。
倒れた時に投げ出されたらしい手が、泣いている幼い私の方へ、偶然にも慰めるように向けられた形になっている。
いや、これはきっとエレナの意志だ。
彼女は私を慰めようとしてくれている。抱き締めようとしてくれている。
「ほら、エレナがいるよ。心配してくれてるよ。抱っこして泣き止んで」
自分自身に対して不思議なものだが、私は丸く蹲って泣いている幼い私の背に語り掛けてみた。
当然ながら、今の私の声が過去に届くことは無く、幼い私の背はひくひくと痙攣を続けている。
どれぐらいそうしていただろう。
やがて泣くのに疲れたのか、幼い私が漸く身体を起こした。
顔が紅潮して、髪がぼさぼさだ。汗でよれよれになった服は肌に張り付き、きっとこれから汗が冷えて寒くなるだろう。
おそらくもう寒いかもしれない。
それでも幼い私は無機質に見えるほどの虚ろな表情で、ただ懸命に呼吸をしている。
台所からは料理をしている音と匂いが届いてきた。
懐かしい、母が料理をする時の音と匂いだ。
本来ならばそれは、幸福な記憶の一部であるはずだった。
だが今は。あの光景を見せられてしまった今は、温かな郷愁は私の中に呼び起されなかった。
娘の激しい泣き声が止んだというのに、料理の音は続いている。
怒り狂った後の母が、私の様子を見に来てくれるようなことはまずない。
呼び起された記憶を辿るまでもなく、私は理解していた。
確かに、こうしたことはよくあったのだ。
おそらく母は、虐待という自分の過ちを何処かで理解しているのだろう。
だからこそ罪悪感に囚われないように、口答えした娘に母親として当然のしつけをしたのだと、自分に言い聞かせているに違いない。それがただの正当化とは気付かないまま。
悪いことをした娘を慰めに来ることは、甘えを助長し、しつけの効果を無くしてしまう。無理にでもそんなふうに考えようとしているのだと思う。
本当は、冷静になった後で、自分の過ちを突き付けられるのが怖いから。
一人で完璧な子育てをしている母親という、彼女の意地を壊されてしまうのが怖いから。
彼女の真意がどこにあったのかは、今となっては全く分からないけれど。
もし叶うなら、母に今の私の声が聞こえて姿が見えたなら、問い掛けてみたい。
幼い私は、全身で泣いた後の虚脱感に、まだぼんやりと放心していた。
周囲を見回し、散乱したおもちゃを一つ一つ感情のない目で見つめていき、最後にカーペットに倒れたままのエレナと目が合った。
笑んだままのエレナが、幼い私に向けて手を伸ばしている。
幼い私は、それをじっと見つめている。
さぁ、抱っこしてあげて。エレナが慰めてくれるから。
そう語り掛けようとした時だった。
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