真実3

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真実3

「何よ、その目は!」  一瞬、怒り狂う母が戻ってきたのかと思った。  だがそうではなかった。  母に似た声で、母に言われたことと同じ言葉を、幼い私がエレナに言い放ったのだ。  そして勢いよく立ち上がりざま、おもむろにエレナの髪を鷲掴みに手繰り寄せた。  慰めるように伸ばされている腕を乱暴に掴み、両手でカーペットに打ち付ける。  何度も何度も打ち付けては宙に放り投げ、蹴り飛ばし、踏みつけた。  まるでサッカーボールのように蹴り上げ続けた後は、エレナの上に屈み込んで何度も両手で叩きつける。 「謝るなら最初から言われた通りにしろ、バカ!」  母と同じ言葉を次々にエレナに向けながら、自分がされたことと同じことをしている。  頭を壁にぶつけられ、踏みつけられ、叩かれる度にエレナのドレスが捲れ、球体関節の脚が大きく開いて、両腕があらぬ方向へ曲がっている。 「エレナァァァアア! エェェェェェレェェェェェェナァァァァァァ!」 エレナの髪を掴んで空中を無茶苦茶に振り回しながら、幼い私は叫びを上げていた。 「キャアァァァァ! キィィィィィ!」 「ッ、……うそ……」  あの声だ。  花月さんに話している時に、私の中にふと甦った、あの狂乱状態に陥った猿のような、甲高い耳障りな声。  うそだ。  ひどい。  まさか。  まさかこんなことって。 ――真実は基本的に苦いものです。  胸に甦る花月さんの言葉は、確かにその通りだった。  でも。それでも、こんなことってない。  あまりに苦すぎるよ、花月さん。  エレナを虐待していたのは、お家に呼んだ乱暴なお友達でもなく、親戚の子でもなく。  私だったなんて。  私が、私自身が、大切なエレナにあんなに酷いことをしていたなんて。  激しい悪寒が足元から背中までぞわぞわと這い上がり、体幹から手足まで、順に全身が止められないほど震え出してくる。  その突端。  今の私の掌や足先にまで、エレナの髪を乱暴に掴んだ時の感触や、蹴り上げた時の重み、振り回す時の空気の抵抗までがありありと蘇ってきた。 「うああ……あ、いやだ……いや、だ……いやだ……!」  逃れようもない事実として。  確かに過去の私自身の肉体が、それをした記憶として。  同時に、幼い頃の私が感じている激情までもが。  全てが紛れもない真実の記憶として、五感を通して完全に呼び起されてしまった。 「あああああ! あああああ!」  言葉にならない悲鳴を上げながら、私は自分自身の身体に爪を立て、その場にしゃがみ込んだ。 「やめてえ! もうやめてええ!」  堪らずに叫んだ声が届いたとは思えないが、幼い私がふと動きを止めた。  エレナの脚を掴んで逆さまに片手に下げ、苦しげに肩で息をしながら立ち尽くしている。  子供の小さな肺では追い付かないほどの暴れ方をしたせいだろう。  怒りとも悲しみともつかない沈痛な表情は、涙と汗で汚れて髪が張り付き、子供らしからぬ苦悩と戸惑いに満ちていた。  ただ黙ってそのまま立ち尽くしていた幼い私は、やがてエレナを大切にカーペットに座らせた。  そして自分も向き合って座り、エレナをじっと見つめる。  髪もドレスも乱れたエレナを見詰めながら、やがて幼い私は何かを語り掛け始めた。  しかしここからでは、その声が聞こえない。  懸命に唇が動いているのが分かる。  なにやら真剣な様子で、頭さえ動かしながらエレナへ一生懸命に訴えかけている。  何を言っているのだろう。  あんなことをしておいて、まだ。  今度は母の真似事の小言でも言っているのだろうか。  貴女が悪いのだから反省しなさいとでも。  しゃがみこんだ姿勢から、這うようにしてゆっくり近付いてみると、声を出していないことが分かった。  息をするだけで精一杯な小さな肺の容量では、まだ声までは出せないのだろうか。  微かな吐息と唇の動きだけで、懸命に何度も、ゆっくりと繰り返している。  近付いてみれば、小さな唇は、はっきりと二つの言葉を象っていた。  ご め ん ね。  ゆ る し て。  声にならない声で何度も何度もエレナに謝った幼い私は、おもむろにエレナを抱き締めて、息をひそめるように泣き出した。  まるで静かに降り始める霧雨のような泣き方だった。  泣きながら乱れてしまったエレナの髪を丁寧に梳かしてやり、曲がった球体関節を元の位置に戻し、ドレスを整える。  花月さんの前で思い出した光景は、この時のものだったのだ。  きれいにしたエレナを、そっとカーペットに寝かせた幼い私は、顔を背けるようにして散らばった小さなティーカップやお皿やケーキのおもちゃを片付け始めた。  おもちゃを全てあるべき場所に納めてしまうと、絵本を一冊取り出し、エレナを見ることはせず、しかし身体を寄り添わせるように傍らに座って読み始める。  日が傾き始めた部屋の中は寒々しく、子供らしい家具やカーペットの色合いも全てが褪せてしまったように見えた。  仰向けに寝かされたエレナは、閉じる仕様の瞼にガラスアイを覆われて、眠っているかのようだ。  幼い私がエレナの瞼を閉じさせた理由も、エレナを見ないようにしながらも側を離れなかった理由も、今の私にはよく思い出せた。  酷いことをしてしまった自分を、エレナは許してくれていないと知っているから。  いや、むしろエレナに許されてはいけないと思っているから。  そうしたことをしてしまう愚かな自分が、エレナの瞳に映ることが怖かったから。  それでも、エレナをひとりぼっちにしたくなかったから。  母に置き去りにされた自分のような心細さを、エレナに与えたくなかったから。  だってこれは、たった一度の出来事ではなかったのだ。  母からこうした扱いを受けるたびに、私もエレナに同じことを何度もしてしまっていた。  その後でどんなに反省しても、どうしても止められなかった。  他者から受けた毒を消化できず、その毒に乗っ取られるように、他の存在に同じことをしてしまうことへの罪の意識。  傷付いた自尊心を回復したいがために、何も悪くないはずの更に弱いものへ当たってしまうことへの恥。  エレナを虐待する一方で、心の冷静な部分が、懸命にそれを止めていたのだ。  やめてよ。  どうしてそんなことするの――と。  あの頃、私の心は真っ二つに引き裂かれていた。  ようやく、我がこととして思い出すことができた。  幼すぎてまだ明確に言葉や形にできない感情ではあれども、子供の心の中にも、そういった恥や自尊心は確かに備わっていることも。    暮れゆく窓が翳りを帯びて、部屋が暗くなってゆく。  現実のこの後は、母が家の明かりを点けていったのだろう。  しかし今こうして私が見ている記憶の景色は、徐々に暗闇に覆われて消えていこうとしていた。  寝かせたエレナの隣で絵本を読む幼い私が、懐かしい家の中が、母の作る料理の音が匂いが――闇の中へと遠ざかってゆく。  蹲ったまま立ち上がれない私を、置き去りにしたままで。  懐かしい生家に帰れて、とても嬉しかった。  しかし苦すぎる真実に触れて、胸が潰れるほどに悲しかった。  それでも。  エレナの怒りを本当に理解するには、確かにこの出来事を思い出す他に無かっただろう。  花月さんの言ったことは正しかったのだ。  大変なことを思い出してしまった。  私の中に、こんな残虐性と衝動があったなんて。  私はこれから、どうやって生きていけばいいんですか。  花月さん――。  
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