「真実は、基本的に苦いものです」

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「真実は、基本的に苦いものです」

完全に闇に包まれた空間の中、私は蹲ったまま動けなかった。 「――真実は思い出されましたか?」  背後の頭上から、花月さんの声が落ちてくる。  なぜだろう。過去の記憶から戻ってみれば、今度は彼の声に伴って訪れた「現在」の空気が妙に懐かしい。  迎えに来てくれたんだと思った途端、不思議なほどの嬉しさと安堵感が込み上げてきた。 「……はい」  同時に、今の自分が社会人であることを思い出した。  このまま動かずにいるのは花月さんに悪い。  立ち上がらなければ。  この潰れた胸を抱えて立つには重すぎて、脚に力が入らないけれど。  ともあれ立ち上がらなければならない。私は大人なのだから。  今更になって泣いた後の化粧崩れが気になり、せめて目の下をさりげなく指で拭いながら、ふらつく脚を叱咤して立ち上がり、花月さんに向き合った。  あの幼い私が、こんなふうに礼儀や化粧崩れを気にする年齢になるまで二十年の歳月が流れたのだと、ふと思う。  その間には本当に色々なことがあった。嬉しいことも悲しいことも沢山あった。  でもエレナの時は止まったまま、彼女はずっと私を怨み続けていたのだろうか。  闇の中でぼんやりと光を帯びている花月さんが、何も言わず労しげに私を見下ろしている。  きっと私が何を見てきたか、全て分かっているのだろう。 「……酷いことをしていました、私」  沈黙を破るのは私でなくてはなるまい。  見てきたことを、ちゃんと言わなければ。  甘味処でお菓子を食べながら私が語った光景は、確かに甘いだけの記憶だったと。  私の罪を他の誰かのせいにして、夢に出てくるエレナの怒りや恨みの理由も、本当には理解してあげられていなかったと。  確かにそれでは、エレナも私も救われないままだったと。 「私を慰めようとしてくれていたエレナに酷いことをして……」 「――茉莉枝さん」 「いいえ、むしろこう言います。何もしていない人形に、ただ可愛がられることが存在意義の人形に、一方的に暴力を振るって」 「茉莉枝さん」 「小さい子供だったから仕方ないなんて言えません。エレナには……フランスから一人でやって来たエレナには、私しかいなかったのに。私は、彼女に優しくして愛してあげるべき立場だったのに」 「茉莉枝さん」 「恨まれて当然だったんだって、もう十分に分かったんです。私はこれからもずっと、あの夢を見続ける義務があるんだって。エレナの気が済むまであの夢を見続けて、彼女の怒りや苦しみに向き合ってあげなければなりません。加害者は責任を負うべきなんです」 「茉莉枝さん」 「私が悪かったんだから。私が優しくできなかったから、私に余裕が無かったから、だから!」 「井沢茉莉枝さん、それは違う!」  一度言葉にしてしまえば、罪の意識は止め処なく迸ってゆく。  その流れを断ち切るように名を呼ばれ、私はハッと項垂れていた顔を上げた。  花月さんの双眸はとても柔らかに、まっすぐに私を見下ろしている。 「それは違います。一方的に暴力を振るわれたのは――貴女ですよ」  りんと響いた花月さんの声が、胃の底まで落ちた気がした。 「え……?」  しかしその言葉はあまりに私の思考の外にありすぎて、一瞬なにを言われているのか理解できなかった。 「確かに茉莉枝さん。何もしていない、ただ可愛がられることが存在意義の人形に、貴女は一方的に暴力を振るいました」  まっすぐに私を見下ろしたままの花月さんが、ふと眉を寄せた。 「ですが貴女もまた――何もしていない、ただ可愛がられることだけが存在意義の、小さな子供だったんです」 「……ッ」  花月さんの言葉に、過去に戻った子供部屋で見た、あの煌めくような光景が甦ってきた。  穏やかな日差しの中で、幸せにままごとをして遊んでいた私とエレナ。  本当ならあのまま何事もなく幸せに過ぎても良かった時間が、一方的に壊された。  あの日の他にも、同じようなことは何度もあったのだった。 「果敢にもこの世に一人で生まれて来た茉莉枝さんが頼れるものは、ご両親しかいなかったのに。そんな貴女を迎え入れたご両親は、貴女に優しくして、愛してあげるべき立場でした」 「……で、でも、私……」 「優しくしたくてもできなかったのは、茉莉枝さんだけではありません。ご両親も同じです。心に余裕が無かったのも茉莉枝さんだけではありません。一番余裕が無かったのは、ご両親ですよ」  ゆっくりと紡がれる花月さんの言葉は、まるで私の罪悪感を鏡で映すようだった。  お茶を飲んで戻った過去の中で。  愛が冷めていたとはいえ、父は母に対し、とても意地悪かった。  いま思えば、出張と聞かされていた間も、本当は享楽的な情事を優先にして家に帰らない日々のことも含まれていたのではないだろうか。  その時の父の思考の中に、きっと私はいなかった。おそらく存在さえも忘れていたのだろう。  それでも父は、本当に出張の時には、沢山のおみやげを忘れずに買って来てくれた。  もう既に不仲だった母の分も、ちゃんと買って来てくれた。 (フランスから茉莉枝に会いたくて来たんだからね――)  エレナという人形の背景を作り、自分よりも小さいものを責任を持って愛するというロールプレイの機会を、私に与えてくれた。  その想いは、今でも私の中に息づいている。  子供を、動物を、例え自分のものでなくても責任を持って大切にしたい。  できれば他の人にもそうして欲しいと願う想いが、心底に根付いている。  子供にしてはいけないほどの虐待をした母は、それさえも正当化した。  泣いている私を慰めにも来ず、自分の衝動の爆発をしつけと正当化し続けた母の中には、ある種の嗜虐的な快楽があったはずだ。  父の血を引く子供が言うことを聞かない時、母には私の顔が父に見えていたと思う。  それでも母は、家族のために自分の時間の全てを犠牲にした。  良き母であろうとして、父と言い争った後も、それを子供に悟らせまいとして、感情を制御しようと懸命だった。  理想としていた良き母であることに失敗してしまった後も、毎日ご飯を作り、家のことをやって、風邪を引いた私にすり林檎を食べさせてくれた。  お母さんになろうとして、精一杯だった。  その想いは、今でも私の中に息づいている。  喧嘩をしても、やるべきことを放棄はしたくない。  お世話をしなければならない存在がいるなら、自分の時間など惜しくはないという想いが、心底に根付いている。  離婚寸前まで不仲であることを、私に一切見せなかった両親は。  彼らもまた、私と同じように、誰かに優しくしようとして失敗していた人たちだった。  仕事や人間関係や金銭的なプレッシャーに、常に耐える社会人として。  ただ余裕がなくて、弱くて、自分自身の心にさえ振り回されていた、どこにでもいる男性と女性だった。  子供の立場では、親であるというだけで立派な人格を求めてしまうが。  彼らもまたそうありたいと願いながら失敗し続けた、ただの未熟な社会人に過ぎなかったのだ。  彼らに与えられる愛情は、確かに私を育んでくれた。  しかし同時に、彼らの澱が私を追い詰めていた。  愛情の底に溜まる、苛立ちと憎しみという澱が。  エレナにとって私は、愛することがうまくできなかった両親の鏡写しだった。  そしてエレナは、もう一人の私だったのだ。 「花月さん、私……私は……」
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