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私の手記
もしも、あなたがこれを見たなら、どうか『私』のことは気にしないで。あなたは、あなたらしく生きて。
最後の頁に、そう綴られていた。凍え、息絶える間際のような震える筆跡で。文字の掠れも構わずに。
遡れば、それは手記という形で綴られた、一遍の物語。『幸せ』が描かれた、少女の、ささやかで短い日常の記録だった。
──宮廷魔導師の家系に生まれた彼女は、幼い頃から書物に囲まれて育ったのだという。
魔導、魔術、魔法に呪術。占星術に、見知らぬ言語の東方の秘術、幻と呼ばれる禁書まで。別け隔てなく集められた魔の書物が、物言わぬ子守役として山積みになっていた。
彼女は、それらとの無言の対話に勤しんだ。その中でも彼女が一番に注力していたのは、父親の記した考察書だった。
風火地水の4大要素からかけ離れた、新たなる魔法論。『時』を司るという奇跡への試行錯誤が記されていた。
その夢に、期待に応えたいのだと。少女は日がな、魔導の解読に明け暮れたという。
何か一つ覚えるたび、何か一つ進むたびに。決まって、父親が笑ってくれることが嬉しかったからだ。
そんな少女だからこそ、部屋の隅に転がっていた『物語』に行き着いてしまったのだろう。
誤って紛れ込んだ物か。表紙と中身が一致しない、絵の添えられた魔法の書。けれど、そこに描かれていたのは術式でも論理でもなく、ささいな、物語だった。
魔法使いの絵本。平易な言葉で綴られた、恵まれない人々を魔法で幸せにしていく話は、初めて物語に触れた少女の目にも幼く映ったという。
魔法使いは幸せを運ぶ。何一つの労苦もなしに、まるで都合のいい奇跡を唱える物語。そんな子ども騙しが、何故気にかかったのかが理解できなかったと。手記の片隅に残されていた。
ただ、幸せの前を描く不幸な姿が。
温かいスープを夢見ながら、狼の住む森へ木の実を探しに行く少年が。
穴の空いた衣服を繕い、夜ごと寒さに震える老婆が。
壁の壊れた小屋の隅で、風雨から宝物を守り主人を待つ捨て犬が。
全部、全部が私のようだ、と。乱れた文字で、そう記されていた。
その日を境に、手記の中身は一変する。まるで、寂しさを埋めるように。
少女の手記は、魔術の試行錯誤で塗り潰されていく。日々の、研究の要約だろう箇条書きですら所狭しと、余白を許さない勢いが、文字の崩れからも見て取れるほどに。
それでも彼女の魔術は功を奏しない。試行も錯誤も永遠のように続く。未だ見ぬ時間の魔術は時計の針を動かしてはくれなかった。
少年の空腹を満たすスープの魔法も、老婆を優しく包み込む魔術仕立ての毛布も、捨て犬を迎えに来る主人の姿も、何もない。
都合のいい物語は、ない。それでも、まるで影を描いた挿絵のように。口を閉ざした少女の叫びが、捲れど、捲れど止めどなく続く。
そうして祈るように敷き詰められた、難解とも稚拙とも付き難い手跡の文字の、その果てに。
突然、一枚の絵が挟まれる。
ただの落書き。しかし紙いっぱいに描かれた、無邪気な筆致の写し絵だった。
ガラクタ置き場から掘り起こしてきたかのような。
絵の稚拙さ故ではなく、一目見て傷んでいると分かる、熊の縫いぐるみ。肩がほつれ、目の片方が落ちかけた、もの恐ろしさすら漂う有様をしていた。
呪詛にも似た転機。しかし次の紙にはもう、時の魔術の実用に目処が立ったのだと、踊るような文字で記されていた。
喪失で、変化を促す。因果のない物事を結びつける、術式、媒介、まるで突拍子のない法則。
そのための鍵は、記憶なのだと。まるで今までの苦難を忘れたと言わんばかりに軽やかに、歌うように書き残されていた。
何より、久方ぶりに父親との会話を許可されたのだと。
褒美を頂いたのだと。幸せが綴られていた。
彼女に与えられたのは、たった一匹の、大熊の縫いぐるみだった。海にでも捨てられていたかのようなボロくずの、元の飼い主を恨むような瞳の、絵にあった熊の縫いぐるみ。
幸せだった。掛け値なしに。憧れの絵本の少女になれたようで。それは生涯で比類なき、幸せの。
終着点だった。彼女の手記はそこで途絶えていた。
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