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『恋は自分に色をつけること。愛は自分の色をなくしていくこと』
そんな文章が流れてきた。ハッシュタグは、“恋と愛の違いについて”。
深爪の人差し指でいいねボタンを押すと、スマホを近くのローテーブルに置いて洗濯物を干し始めた。早くしないと、私の自由時間がどんどん減っていく。
全ての家事を終え、午前十時、後部に子供用の座席がついた電動自転車に跨がる。武蔵境通りを走り、深大寺を目指した。空は全体が雲に覆われ、日差しは強くない。時折吹く風が肌を撫で、やわらかく心を解していく。
自転車を漕いでいる間に、今朝息子を幼稚園に送り届けた時のことを思い出していた。
『ゆうくんママ、今日の夜ご飯何作る?』
ゆうくんママと呼ばれるのが苦手だ。まるで自分が息子の付属品であるかのように感じる。だからこそ、自分の品質を落とすわけにはいかない気がしていつも怯えているのだ。自分の品質は、息子の生き方に直結すると思うから。
母であることは幸せなはずなのに、どこかで窮屈を感じている。
『ゆうくん野菜嫌いなら、かぼちゃスープなんてどう? 家にある野菜全部ミキサーに入れて混ぜちゃえばいいのよ。蜂蜜入れて甘くして』
二十分ほどで神代植物公園に到着した。駐輪スペースに自転車を停め、先月購入したばかりの年間パスポートで入場する。針葉樹園やしゃくなげ園を通り、真っ直ぐにバラ園へ向かった。
もうすぐだ。もうすぐ私は私に戻れる。ゆうくんママではなく、ミチルに。
噴水があるバラ園まで辿り着いた。右手には温室が見え、近くには鐘が幾つもついたステンレス製のモニュメントのような、カリヨンという楽器がそびえ立っている。
生い茂るバラを眺めながら、パーゴラが設置されたベンチへ向かった。日陰に並んだベンチには、膝枕をしているカップルや、会話に夢中の若い女性二人、本を読んでいる老紳士など様々な人達がいて、パーゴラから漏れる光が彼らをまだらに照らしていた。
その中で一人、ひたすら遠くの噴水の方を眺めている青年を見つけた。綺麗な曲線を描いた横顔に見惚れて、目を奪われる。眼差しはどこまでも真っ直ぐで、だけど何も見ていないようにも見えた。
「大原さん」
呼びかけると、大原さんは小さく手を振って微笑んだ。胸がこれ以上ないくらい高鳴って、フレアスカートを揺らし軽やかにベンチまで近づくと、彼の右隣に腰かける。
私達はしばらく黙ってバラ園に視線を向けていた。先に口を開いたのは大原さんだ。
「ミチルさん、昨日夢は見た?」
そうやって、突拍子のないことを尋ねる彼に惹かれた。
「……見てない」
大原さんは、以前私が家族とこの植物公園に遊びに来た時に、何度も見かけた人だった。毎週日曜日の午前中、必ずこのベンチに腰かけているので、もしかして他の曜日もいるのでは、と思い平日も見に来てみたらビンゴだった。シンプルな白いシャツとベージュのスラックスを身につけた、すらりとした青年。彼は先月に会社を辞め、転職先の仕事が始まるまで暇を持て余しているらしい。
私は彼のことが眩しくて仕方なかった。毎日のようにここでバラ園と噴水の景色を見つめる、期間限定の自由を手にした彼のことが。
「僕は青い花の夢を見た。すごく綺麗で、写真に収めたいけどうまく撮れなくて歯がゆい夢。ミチルさんにも見せたかった」
「ありがとう。……私も見てみたかった」
彼の夢の中で咲いている青い花を想像する。きっと美しいに違いない。夢から目覚めた時、私に見せたいと思ってくれたことが嬉しかった。
「ここにも青い花は咲いてるかな。見に行ってみる?」
彼は頷かなかった。
「いいんだ。花がたくさん咲いてる環境で、花を眺めないなんて、贅沢でしょ? 花側だってもう見られ飽きてるよ」
彼の言葉に笑いが込み上げた。確かに、それは贅沢だ。
悪いけど、私は今ここに咲いているどの花よりも鮮やかに色づいてる。そんな自信がある。天津乙女より、コンフィダンスより、ウィンナーシャルメより。彼の夢の中で咲く青い花よりもきっと。
これは浮気と呼べるものだった。彼とはこのベンチでしか会ったことがないし、身体の関係を持ったことなんてない。けれども確かに浮気だった。それは私を、ゆうくんママから私に戻してくれる。
罪悪感はそこまで感じなかった。あるとしても、そう、例えばキッチンの棚にひっそりと佇む蜂蜜の瓶。底の方が、ざらざらと結晶化していくのを見て見ぬ振りするくらいの、とるに足らないもの。琥珀色に透き通る美しい蜂蜜が白く濁っていく姿を想像して、胸がほんのり色づいた。
「青い花の夢占い。非現実的で不思議な状況に遭遇する可能性があります、だって」
スマホに浮かぶ文字を読む。彼は「マジで?」と笑った。
「だけど、それを乗り越えられる冷静さも持ち合わせてるらしいよ。……だから、大丈夫」
「ありがとう。なんか、良い夢見たな」
微笑み合って、再び視線を噴水に戻した。ここにいる時だけは、私はミチルでいられる。付属品でも、誰かを命がけで守る存在でもない。こうして噴水とバラを眺めながら、ぼんやりと夢の話をしているだけの人間。
解き放たれたような幸福に打ち震えるのと同時に、寂しさも感じた。それはホームシックのような、ソワソワとした心許ない寂しさ。私は贅沢なやつだ。
ここにいる時も、薬指の指輪を外さなかった。私と彼を守るため、そして愛する人への誠意のためでもある。卑怯な行為であることもわかっていた。
「青い花、なんの花だったんだろうね。カキツバタ、紫陽花、……グアラニカ?」
神代植物公園で咲いている青い花をネットで検索する。本当は、二人で見て回りたかった。寄り添って手を繋いで。大温室でベコニアを眺めたり、広場でバラのソフトクリームを食べたりして。帰りにはお蕎麦屋さんに寄って食事をしたかった。だけどそれは叶わない。こうして並んで座っているだけで精一杯。すぐにでも立ち上がって、離れられる距離。
「ミチルさん」
彼が私の名を呼んだ。とっても甘くやわらかく耳に溶けていき、私に今、色がついているとしたら、青が良いと思わせた。
「僕はもう、ここへは来ないよ」
恐れていた日は、思ったよりも早くやって来た。不思議と落胆はしなかった。
「これ以上あなたに会ったら、触れてしまいそうになるから」
彼の色が、消えてしまう瞬間なのだと思った。私はそれに耐えられないから、「わかった」と言うしかない。
「少しの間だったけど、楽しかった。……幸せに」
そう言って彼は立ち上がる。
「……ありがとう」
確かに恋だった。恋であってほしかった。
「待って」
一度だけ彼を引き留める。
「カキツバタの花言葉、幸運は必ず訪れる、だって」
彼はふっと笑う。
「ありがとう。見て帰る」
彼もやっと、ここで花を見る気持ちになったか。そう思うとおかしくて、私も顔が綻ぶ。
しばらくベンチでバラを眺めた後、私もカキツバタを見に行くことにした。水生植物園という、園から少し離れたところにあるらしかった。深大寺門から出て、お蕎麦屋さんが連なる通りを歩き水生植物園に向かった。ところどころに青色の紫陽花が咲いていて、とても綺麗で胸が締めつけられる。雀のお宿というお店の前には幾つもの風鈴がぶら下がっており、風が吹く度に涼しげな音を鳴らして揺れていた。
水生植物園に、もう彼の姿はなかった。彼どころか、人が一人もいない。ハナショウブ園は、ひっそりとした静けさの中にあった。
菖蒲もアヤメも、カキツバタも、看板の説明を見ないと見分けがつかない。写真と見比べながら、カキツバタを見つける。どちらかというと、紫に近い色だった。
『紫だったね』
そんな大原さんの脱力するような声が聞こえた気がして、切なさが込み上げた。
鬱蒼とした葉の中で、カキツバタはすっと真っ直ぐに咲いていた。凜とした、清々しいまでの寂寞が大原さんと重なって、急に涙が溢れた。
私はちゃんと失恋して、深く傷ついている。今もこの感覚が私の中に残っていたのだと、少し驚いた。
私に触れてほしい。
そう答えていたら、何かが変わっていただろうか。そんな馬鹿馬鹿しい問いが胸を過って、ひたすら情けなく、静かに泣いていた。
私はこの先どこへも行けないような気がした。身動きがとれなくて、時には息苦しさに喘いで。
しかしそれは紛れもない幸福でもある。絶望なんかじゃない。私はゆうを、主人を心から愛している。
自転車に跨がり、来た道を戻っていく。曇り空の下、つとめて一切を頭から振り払うように、夕飯のメニューを考えていた。
かぼちゃスープを作ろう。ゆうも主人も甘党だから、きっと喜んでくれる。ありったけの野菜をいれて。気持ちが僅かに軽くなっていく。
大原さんが色を失わずに済んでよかった。
かぼちゃスープに、あの結晶化した蜂蜜をいれてしまおう。悪戯っ子のようにほくそ笑む。
また色をなくしていく自分に失望するような、心底安堵するような、複雑な気持ちをかき消すようにして、勢いよくペダルを踏み込んだ。
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