森山里菜

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森山里菜

「いやあ、森山先生。さすがだわ。きりん組の子たち、みんな黙って聴きいってたね。らんらんらんら、らんらんらあ♪心に染み入る。上手。さすが音楽短大出身。あれ、ジャズだよね」 「すいません」 そもそも子供たちに歌わせるためのピアノ伴奏なのに、ついつい調子に乗ってみんなの前で弾き語りしてしまった。「きらきら星」のジャズアレンジ。 「よく歌ったわ、私もこの歌。ABCの海岸で、蟹にちん♪」 「園長。それはだめです。職場です」 私もその替え歌は知ってる。女性ともあろうもの、この歌を人前で歌ってはならない。もう還暦近いのに、TPOを時々考えない園長なのだ。 「ちん、と言えば、森山先生。明日よね。お引越し」 「ちん、と言えば、って何ですか。やめてください、その話題導入」 「ははは。若いっていいわね」 「若くはないです。もう27」 「お相手はこんな可愛い娘をお嫁さんにできてうらやましい。私が欲しいぐらいだわよ」 可愛い、と私がよく言われていたことがあったのは事実だ。高校生の頃、原宿に出かけて一日に何度もスカウトに声をかけられたこともあった。時々今も言われる。勿論女性であれば、気分が悪いわけはない。 明日は土曜日。 私は婚約者である同い年の圭太さんに手伝ってもらい、実家の近くに借りているアパートから、同じ市内のマンションに引っ越す予定だった。そして、翌日の日曜日はアパート暮らしの圭太さんの引っ越しを私が手伝う。やっぱり市内から市内。こうして私たちの同居生活は始まるのだ。ちなみに私が勤めるこの私立幼稚園も同じ市内。すべては、半径数キロ範囲で済んでしまうコンパクトな日常。今の私にとってはこの市内が全てだ。このまま結婚すると、おそらくここから出ていくことはもうなくなる。 「月曜の朝、遅刻しないようにね。ぐふ」 「う。はい。じゃ、お先失礼します」 「お疲れ様」 こうして園長は、園舎に戻った。帰りがて駐輪場でたまたま出くわした園長と長話になってしまった。彼女の今の発言はこれはセクハラではないかと思ったけれど、からかわれてうれしがっている私がいるのも認めざるを得ない。まあ、今だけなんだろうしね。 神奈川県はすぐ隣、そんな東京の端っこの市の5月の夕方。 辺りはもう暗い。 さあ、帰りましょ、と、最近、50ccから110ccに買い替えたカブに私が跨ったその時、スマホに着信。あれ?圭太さんのお母さん。珍しい、っていうか直接電話が来るのは初めて。 「お母さん。どうしました?」 「里菜ちゃん、大変」 「圭太さんですか?」 「そう。大変なの。一緒に来て」 「はい。あの、どうしたんですか?圭太さん。交通事故でも」 「違うの。それが」 「はい」 「なんか、おしっこが止まらないらしくて」 「は?」
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