車内

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車内

「ごめんなさいね。里菜ちゃん」 「お母さんが謝ることじゃないです。もう謝んないでください」 「だって」 バイクでアパートに戻った私は、車で迎えに来てくれた圭太さんのお母さんと彼の職場である郵便局に向かった。郵便局もやっぱり市内にある。 郵便局の一階の職員用男子トイレ。5つ並んだ小便器の一番手前、立ったままの圭太さんと面会し、別れて、私は再び、お母さんの運転する車の助手席にいる。 「ほんとにおしっこ、止まらないんですね」 「ね。しかもあんなに勢いよく」 郵便局の制服のままの圭太さんのその先っぽから放出されるおしっこは、まるで開け放しにした蛇口の水のようだった。倦まず滞らず、それはとても人間のそれとは思えない。おしっこそのものだって、まるで水のように澄んでいた。 泣きそうな顔でものを掴んだままその場を動けない圭太さん。おしっこがじゃあじゃあと便器をたたく音の中、圭太さんの代わりに平田さんという上司の人が、事の次第を申し訳なさそうに説明してくれた。 昼食までは彼の体に異変はなかった。午後の配達の準備を整え、トイレに入った途端、猛烈な勢いでおしっこが飛び出し、そのまま止まらなくなってしまったんだと言う。事情を聞いた平田さんはとりあえず救急車を要請した。とはいえ、救急隊員にしたって、おしっこを出し続ける病人とも健常者ともつかない者を救急車に乗せるわけにはいかない。病院に連絡を取ったものの、どこも引き受けてくれない。そりゃそうだ、どう対応するんだ。診療ったって、入院ったって、どこで?トイレで? とりあえず、このまま様子を見るしかないようだった。おしっこなんだから、いつかは止まる。そう周囲の人たちは判断した。 車が私のアパートの前に着いた。サイドブレーキを入れると、圭太さんのお母さんは改まった口調で私の名前を呼んだのだった。 「里菜ちゃん」 「はい」 「ごめんなさい」 「だから、それは」 「ほんとに、こんな可愛いくて優しい子が圭太のお嫁さんになるなんて私、天にも昇るような気持だったのよ」 「いえ。そんな」 「圭太は不細工な癖にこんなことして」 「おかあさん。私は圭太さんをそんな風に思ってません。それに今回の件は、病気みたいなもんじゃないですか」 「もしね。もし。圭太のおしっこが止まらなかったら」 「はい?」 「里菜ちゃん、別のいい人、探しなさい」 「え?」 「圭太のことは大丈夫。私が世話するから」 「お母さん」 「明日の引っ越しは、ひとまずやめにしたら?」
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