晴れの舞台

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晴れの舞台

母について初めて日本舞踊のお稽古に行ったのは、僕が幼稚園の頃だった。まだ一人で留守番ができなかったから、毎週、母について行って見学しながら待っていた。ときどきお姉さんたちが僕に浴衣を着せたり、髪を結ったりして遊んでくれた。 小学3年に上がった年に、僕も踊りを習い始めた。もう留守番はできるけど、堂々と、かわいく、きれいになれる方法が、これしかなかったから。 二年毎に大舞台があって、その時は衣装もカツラも合わせて、顔師も来る。それが一番の楽しみだった。 僕は白粉を塗るときの、刷毛の冷たい感触が好きだ。ひんやりとしてビチョビチョに濡れた刷毛で撫でられたあと、ちょっと乱暴にスポンジでバシバシと叩かれる。真っ白になった僕がクスクス笑うと、裏方の大人たちが喜んでくれた。 『ようちゃん、あんたかわいいな』 それが僕はとても嬉しかった。 中学生になると、膝が弱くなった母は踊りをやめ、僕だけ通うようになった。 その頃からどんどん背が伸びて、ゴツゴツしてきた僕は、だんだんと『かわいい』とは離れていった。 学校の制服でいるときはいいけど、踊りのときはすごく嫌だった。 お師匠さんは、僕の振り付けを少しずつ少しずつ、大人のかたちにしてくれた。 首の振り方も、袖の返し方も、裾のさばき方も、見返りのときの顎の引き方も。子どもの頃の、カクンカクンとした、ただ可愛い振りとは全く違う、柔らかくて、強くて、粘りのある女の動きだ。 高校生になる頃には、すっかり踊り方が変わっていた。 だけど、ゴツゴツと骨ばった体も、飛び出した喉も、大きな手も足も、お稽古着のままの僕はとても滑稽だった。お稽古場の大きな鏡に映る自分が、太く低くなった声が、全部が、悲しい。 高校二年になった。もしかしたら僕の最後の舞台かもしれなかった。だから、大舞台がこの年で本当に良かったと思っている。 あの人に、会えるから。 初めてあったときから八年経つ。 僕の成長を隔年で見守ってくれた人。いつも『ようちゃん、あんた、かわいいな』と、褒めてくれた人。 だけど僕はもうかわいくない。 羽二重をして、浴衣の胸を開け、肩まで出して顔師の前に座る。 「よろしくお願いします」 「あれ、あんた、ようちゃんか?」 「ご無沙汰しています、しげさん」 あぁ、こんなに低い声じゃ、かわいくもなんともない。 「なんや、えらい大人んなったなぁ」 「もう、かわいくなくなっちゃいました」 「そやなぁ・・・」 そうだよ。 しげさんは刷毛で僕を真っ白にしてくれる。冷たくてビチョビチョで気持ちがいい。スポンジでバシバシと叩かれて、また、僕は笑ってしまう。 「こら、シワよるで、じっとしぃ」 ゆったりとのんびりとした話し方。 しげさんは優しくて、広くて、いい匂いだ。 「前のときは受験やったんか?」 「うん」 「そうか」 「会いたかった」 「なんや、恋人やないで」 うなじの形をスルスルと作り、背中も大きく白くなる。 「綺麗な冬の富士山や、見事やなぁ」 向き直って、目はりの紅や眉を描くと、しげさんは僕の顎を支え、右、左、と軽く振る。 「ようちゃん、あんた、綺麗なったなぁ」 「僕、きれいじゃないよ、ゴツゴツして、もう前と違っちゃったよ」 「なに言うてんねん。美人さん、後でしっかり鏡見てみぃ、みんな惚れてまうなぁ」 最後に唇の真ん中に紅をさす。 口を半分ひらき顎を支えられ、筆で丁寧に赤くしてもらう。目を瞑るのが勿体ないくらい、しげさんの顔が近くにある。僕は目を伏せた。 「ほんまに綺麗やなぁ・・・」 しげさんは小さくつぶやいた。 手をついて挨拶をしてから、衣装さんの元へいく。 しげさんはニッコリと笑って、がんばりや、と見送ってくれた。 重い重い衣装は、幾重にも重なり、着付けは二人がかりだ。 「ようちゃん、仕上げだよ」 カツラをつけて、目を上げると、大鏡に美しい娘が映った。 「お七、いってらっしゃい」 「はい、せんせ、行ってきます!」 みんなに見送られて、僕は舞台へ向かう。 お七は、恋しい吉三にあいたくて、火を付ける。次第に狂い、吉三の幻を見る。幻は連れ去られ、狂ったお七が叫ぶ。 私の吉さまを返せ。と。 返しゃ、戻しゃ・・・ 僕にはそんな相手はいないけど、恋しい人に会いたい気持ちはよく分かる。お七と僕は同じくらいの年頃だ。 こんなに激しい感情、あるんだな。 櫓に登り、多分もう会えないだろう、しげさんを想った。真っ赤な袖を振り、僕は、お七になった。 幕が下りて、僕は櫓から駆け降り舞台袖へ走った。カツラと衣装を取ってもらって、すぐに楽屋に入った。僕以外に男がいないから、いつも一人部屋を用意してもらっていた。 クレンジングクリームを顔に塗りたくり、泣きながら白粉を落としていく。一人部屋じゃなかったら、大変だ。 (ぶすだな。僕。泣きすぎだよ) ノックされ、我に返る。 『ようちゃん、おるか?入ってええ?』 ガチャリとドアが開いて、しげさんが顔をのぞかせた。拭き取りのタオルで顔を隠す。 「どないしたん」 「クリーム、目に入った」 「平気か?」 「うん、平気」 「なあ、わし、地元に戻ることになったわ」 「うん」 「でな、この舞台、今年で最後や」 「うん」 「やっと、独り立ちやで。ようちゃんの舞台、もう見れへんな」 「僕も、来年は大学受験だし、その先も、続けられるかわかんないから・・・」 「勿体あれへんなあ」 「なんで?」 「こんなに美人やのに」 「もう、顔、落としたよ」 「いいや、ようちゃん、美人さんやで」 「こどもを、からかうなよ」 クリームをしげさんに渡す。 「背中、手伝って」 「ん、」 しげさんは僕の後に座り、うなじから続く背中の白粉にクレンジングクリームを塗ってくれた。 くるくると優しく撫でて、しげさんが塗った白粉を、しげさんの手で、落としてゆく。しげさんの手は大きくて温かくて優しくて、とても気持ちがいい。 僕は背中とうなじと、あと首も、胸も、全部をやってもらう。おしろいを塗っているときみたいに、僕たちはまた向かい合った。 「しげさん、初めてあったとき、まだ見習いだったの?」 「うん、大学出てすぐやったわ。ようちゃんは三年生やったなぁ。手習い子、覚えてるわ。かわいかったなぁ」 「僕、ずっと好きだったよ。しげさん、かわいいなって言ってくれたから」 「きしょいやろ?」 「そんなことないよ、うれしかったもん」 「そうか。今はもう、かわいうない。綺麗やで」 よし、終わりや。 白粉を拭き取って、しげさんは襟を戻してくれた。 僕は鏡台へ向き直り髪の毛を直す。鏡越しのしげさんが、後ろから櫛を僕に渡した。 「僕がこどもじゃなかったらよかったのに」 「ようちゃん、頼むわ、泣かんといてや」 鏡台に映る僕の顔を見て、しげさんは頭を撫でてくれた。 「ありがとうございました」 「そらこっちのセリフやで」 「好きやで、しげさん」 「なに言うてるんや、やめとき」 僕は鏡越しのしげさんをまっすぐ見た。 「大好きやで、繁信さん」 「・・・おおきに」 しげさんは目をそらしてから、僕の肩に顔を隠した。鏡に映らないように下を向いたしげさんは、たぶん泣いていた。 「おおきに、陽太朗。わしもやで」 僕は堪えきれずに俯いた。ポタポタと膝の上に涙が落ちる。 僕のうなじに、柔らかく温かい感触があり、それからしげさんは立ち上がってドアへ向かった。 「元気でな、ようちゃん」 しげさんは静かに楽屋を出ていった。 そうして、僕の初恋は幕を閉じたのです。 End
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