♯ シャープする人

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♯ シャープする人

いつも通る線路わきの細い道は、人があまり通らない。 目の前には街灯に照らされて伸びた影が二つ。 「安岡さん、また、言われたんですか?」 ベースを背負った体格のいい松川は、隣でしょんぼりする安岡をみた。 「うん。普通の時はね、良いんだけどね。」 すこしヨレたスーツに、ワイシャツの一番上だけ開けて、ネクタイを緩めた安岡は苦笑いをする。 「なんで、ですかね。それ。」 「昔から、なおんなくて。」 「緊張すると、ってマチコ先生言ってましたけど。」 「違うんだよ、あれ。そういうんじゃないの。」 街の音楽教室でいつも帰りが一緒になる。 安岡はボーカルレッスンの生徒。 松川は別の部屋でベースレッスン。その、講師だ。 「バンドでさ、歌いたいんだけど、渋い顔されんの、やりにくいって。」 「ふうん。でも俺、ときどき漏れてる音聞くけど、結構好きですよ。あの声。」 安岡は横を歩く松川を見た。 当の松川は、自分で言った「好き」という言葉が恥ずかしくなり、線路の方を向いて顔を隠した。 講師の松川は安岡よりもずいぶん若い。 コントラバスで進学した音大を中退して、講師をしながら別の音楽の道に進もうとしていた。 安岡は学生時代から部活やサークルで歌っていたか、厄介な癖のためなかなか上手くいかずにいた。 もう三十半ばで最後のチャンスだと、その癖を直すためボーカルレッスンに通い始めたのだ。 「あ、いや、そういうんじゃないですよ、すんません。声がね、好きだなって。あの時の、シャープしちゃう感じ。」 言えば言うほど、恥ずかしい言葉しか出てこない。 「どんな?どんなふうになる?聞くと。」 「え、と。どんなって・・・なんか、ぞわってします。」 「ぞわ?・・・そう・・・」 「えーと、イイ方の、ぞわ、です。あと、ぞく、ってします。緊張してるってわけじゃないんですか?」 「うん。逆なんだよ。気分が上がると、飛びぬけちゃう。だから合唱とかもダメだし、マチコ先生や松川先生みたいな音大出身とかの、譜面をちゃんとやりたい人からは、怒られちゃう。」 「なんだ、だからか。安岡さんの声って、ゾクゾクして、もっと聞きたくなるんですよ。俺さぁ、音大まで行ったけど、クラシックがイヤになっちゃって、今、ジャズとか、ファンクなんですけど、安岡さん、ベースのリフに合うから。低音の、バチバチのやつで、ノッてきて『ィあぅ!』って感じ。楽譜が命のクラシックでは味わえないんで。」 安岡は立ち止まり横を向いた。 松川のむこうで、電車はゴーという音を立てて通り過ぎる。 「へ、へぇ、そうなの・・・」 安岡はムズムズする体をおさえた。 「あの、俺と一緒にやるの、ダメですか?」 「バンド?」 「そう、フロントマン、探してるんです。」 「でも声、まだ直ってないし。」 「だからさ、いいんですって。あれ、あの声、すげぇ、あの、なんか・・・」 「え、なに?」 「なんか、ね。」 安岡は落ち着かない松川に釘付けだ。 ガタイのわりに行動がかわいい。 「いつもは出ないんですか?歌の時だけ?その声。すごいんですよ、コードを一瞬超えちゃって、飛ぶ感じ。」 「そう、ね。まあ、気分がいいとか、高ぶるっていうか、まぁ興奮するとね、出ちゃうみたい。」 「へぇぇ・・・そう。」 また電車が松川の向こうでゴーと通り過ぎた。 パ、パ、パ、パ、と窓からの光がリズムよく照らす。   映写機みたいに映して安岡の顔に反射する。 「だからさ、そろそろ、ヤバいよ。」 「そろそろ?いや、もう、ちょいちょい出てるし。それに厳密に言うと、シャープじゃないんですよ、安岡さん。半音まで行かないの。三分の一くらいですね。」 松川はクスっと笑った。 「さすが松川先生。」 「安岡さん、もっと、いっぱい聞きたい。それ。」 ぅ、OK! ぁ! whooooooooooa!C'mon ナ! アィ、 feeeeeeeeeeel good !!!!! End
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