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今から二百年位前、あるところに若い百姓が住んでおった。他の百姓同様貧しかったが、男は非常に満足しておった。何故なら嫁を大いに気に入っておったからじゃ。別に器量よしでも何でもなく十人並みの女じゃったが、身分相応と諦めておるのもあったじゃろう、とにかく好いておった。
ある日の昼休みも畦の道端に腰を下ろし、愛妻弁当であるおにぎりの包みを開いて見るからに幸せそうに飯を食っておると、見たこともない鯔背な格好の青年が面白くなさそうな顔をして近づいて来た。
「よぉ、そんな時化たもんで恵比寿顔になるなんざぁ野暮だぜ。そんなんじゃなしに粋なもん食いたかねえかい」
男はびっくりして青年の顔を見上げた途端、嫌な顔をして言った。
「お、お前、初対面でいきなり何言ってるだ」
「まぁ、かてえことは抜きにして良いから、これを見な」
男は差し出された物を見て言った。
「何だか鼻につんと来るだ」
「美味そうだろ。おめえさんは田舎もんだから知らねえだろうが、これが泣く子も黙る江戸前寿司と来たもんだ」
「?」
「ハッハッハ、おめえさんが知らねえのも無理はねえ。これが今、江戸で評判の食いもんなんだ。一つやって見な」
男は半信半疑ながら好奇心が優って誘われるがまま食べてみた。
「うめえ、こりゃうめえだ。確かにうめえだ」
「ハッハッハ、そうだろ。かかあの拵えたのよりうめえだろ」
「う~ん、それはどうだか…」
「ハッハッハ、強がるなってんだい。江戸へいきゃあ食いもんはうめえし、おなごもうめえぞ。殿様になりゃあ猶更だ」
「ハ、ハハ、何言ってるだ」
「何言ってるもクソもねえ。おいらはおめえさんに良い夢を見させてやろうって言ってんだ。四の五の言わずにみんな食ってみな。良い夢が見れるからよ。さ、食いねえ、食いねえ、寿司食いねえ」
男は訳も分からず美味に誘われるがまま平らげると、その途端、眠気が差し、知らぬ間に寝入ってしもうた。で、青年の言うとおり良い夢を見られたが、それはそれはリアルな不思議なくらいリアルな夢じゃった。男は転生して将軍になったのじゃ。それから御馳走に与れるのみならず大奥の中でも傾城と言うべき飛び切り美女とまぐわうことが出来たのじゃ。これに味を占めたからにはもう駄目じゃ。目が覚めて現実に戻ると、何もかもが嫌になってしもうた。殊に自分の身分と嫁が嫌になってしもうた。で、絶望して木の枝に縄を引っかけ首をくくろうかくくるまいか逡巡している所へ例の青年がやって来た。
「あ、あんたか、た、頼む。江戸へ連れてってくれろ」
「江戸へ引っ越してえって言うのかい」
「うんだ」
「一炊の夢を求めてかい」
「はっ?」
「ハッハッハ、あのな、江戸へ引っ越した所で殿様になれる訳じゃねえのは素より、職が見つかる訳じゃなし、いい女と関係持てる訳じゃなし、どうにもならねえよ」
青年はそう言うと、すたこらさっさと何処かへ行ってしもうた。鯔背もヘチマもあったものじゃない。斯くして後に残された男は、首をくくるしかなくなって死んでしもうた。
その様子を遠くから眺めていた青年は、しめしめと男の下へやって来るや否や、魂をかっさらってしもうた。そうなんじゃ、青年は誰あろう死神の化身だったのじゃ。
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