丁寧な暮らし―1

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丁寧な暮らし―1

 仕事は辞めた。実家に帰ろうかとも思ったけれど、定年まできちんと教師を務めあげた両親と毎日顔を合わせていたら気が狂ってしまうと思って、今まで貯めてきた貯金と、実家からの仕送りで一人暮らしを続けることにした。自分でも情けないと思う。情けないと思うけれど、そうすることでしか今の自分には死を避けることができなかった。  起きて、顔を洗って、着替えて、食事を作って、食べて、掃除をして、洗濯をして、風呂に入って、夜になったら布団に入って眠る。二週間に一回メンタルクリニックに通って、少しずつぐちゃぐちゃの毒まみれになった心を組み立て直している。  薬を飲んで、言われたとおりに規則正しい生活をする。先生、と呼ばれていた私が、先生の言うことを聞いて、自分の心を学び直す。私の壊れてしまった心は、きっと元の形には戻せない。だから、新しい私の形を探している。  親の言うとおりに教師になって、恋人ができて、あっさりと捨てられて、学級崩壊させて、適応障害になって、うつ病を患った、新しい今の私が持つべき、新しい心の形を探している。  きっと、綺麗な形にはならないだろうな、と、そんな気配がする。仕方のないことだ、と思う。一度でも壊れたものは、もう元には戻らない。それは仕方ないのだ。だから、私は新しい心の形を受け入れなければならない。わかっている。私はそれを飲み込まなければならない。 「あまり、深く考えすぎないように。どうせ皆、そんな賢くないんです。人間、賢い振りをしている人ばかりです。私も含めてね」  担当医が笑いながら言う。私もそう思う。皆、馬鹿ばかりだよな。私も。あなたも。あの人も。あいつらも。どの人も。皆、馬鹿ばっかりだよ。馬鹿が馬鹿なまま馬鹿じゃない振りをして馬鹿な世界を回している。  世界は馬鹿だ。馬鹿な世界で、私は馬鹿みたいに息をしている。  寝たきりのような時期を超えるだけで、相当な時間を要した。三、四日風呂に入れないなんて当たり前で、食事も空腹の感覚がなくなってしまったから行う必要がなかった。時々思い出したように水を飲んだり、家にあるカップラーメンをすすったりして、でもその湯を沸かして箸を持ち頬張る、という作業だけで限界に達してしまいまた寝込む。  半分死体のような時期を過ごして、それでもなんとか病院だけには通った。生活費を負担する両親との、唯一の約束だったからだ。 「理由なく一度でも医者を休んだら、仕送りは止める」  おそらく、私を治したいという気持ちから出た言葉なのだと思う。わかっている。それでも時々、それはひどく重荷に感じられた。もし万が一休んでしまったら、仕送りが止まったら、そしたら私はどうなるのだろう。  貯金を少しずつ食いつぶして、空っぽになって、何にもなくなって、風俗にでも務めるのだろうか。元教師、という肩書きは利用できそうだな。でも私に知らない男と日に何度も寝る勇気などないだろう。どうせ本当に狂って首をくくってしまうに違いない。  だから、病院だけは通ったのだ。  その甲斐もあって、少しずつ私は快方に向かった。本当に、少しずつ、一日一度は食事が摂れるようになって、毎日風呂に入れるようになって、部屋の埃が気になるようになって掃除機をかけて、洗った洗濯物を畳んでしまえるようになった。現在の自分を客観視して、どこが、どのくらい、どのように壊れている、と、正しく認識できるようになった。  私は、責められすぎた。私は、私を蔑ろにしすぎた。私は、私をいじめすぎてしまった。  自分を大切にしなければならない、と、気づけた。  一つ、自分に義務を科そう。日々を大切に暮らすのだ、と。  慈しむように、守るように、包むように、毎日を愛してあげられるように、そう努めて生きてみよう。毎日を、丁寧に、暮らそう。それでだめなら、もう、本当にだめなのだ。きっと、だから、最後に一度だけ、試してみよう。
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