誘い水

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誘い水

◇◆◇ 「おはようございます」  翠が社長室に戻って三日目、髪色はほぼ元通りになっている。肌の色が以前に比べて白っぽい以外は、見た目はほぼもとに戻ったようだ。  俺は、一階のカフェで翠がいつも飲んでいたコーヒーを買い、エレベーターで事務所のある階へと上がった。VDSの事務所内は、いつも通りたくさんのセンチネルとガイドが現場対応のための待機をしていて、ミュートのスタッフがそのサポートに忙しく走り回っていた。  その脇をすり抜け、奥にある社長室へと向かう。一つドアを隔てたその部屋に向かうその途中、センチネルとして爆発事故現場に向かっていた女性スタッフに声をかけられた。 「おはよう。君の復帰はまだ少し先じゃなかったかい? もうしばらく安静にしているように言われただろう?」  彼女は、爆発の際に壁に吹き飛ばされてしまい、頭を打って入院していた。経過観察の後、特に問題がなかったそうで、早急な現場復帰を望んでいた。  しかし、会社としては業務中に頭を強く打っているわけで、労災として彼女にしっかり休むように指示してあったはずだ。デスクワークならまだしも、彼女はまた最前線に向かうセンチネルとして働く。体調が万全でなかった場合、また同じことが起きるのは火を見るより明らかだった。 「はい。でも、あの日、私がちゃんと誘導出来なかったから、果貫さんは崩落に巻き込まれたんですよね? それからまだ見つかってないとお聞きしました。もし、もしも私のせいで副社長が亡くなられたとしたら……、しゃ、社長に申し訳が……」  彼女は、ソウスイに憧れて入ってきたタイプのセンチネルだ。昔は、生きづらさから解放されるために、早くペアを見つけられるなら、それが恋人でもビジネスカップルでもどちらでもいいと思っていたらしい。  それが、ここに登録した後すぐに設けられた歓迎会の席で、センチネルを守るために尽力する蒼の姿を見て好意を持った。ただ、そのばにはもちろん翠もいて、二人の様子からすぐに彼らがボンディング済みのカップルだと気がついたそうだ。  その時以来、二人に憧れて仕事を積極的にこなしてくれている。今やこの会社では、咲人に次ぐナンバー4に当たる。その彼女が案内をしてもうまくいかなかったのが、あの爆発事故現場だった。彼女を責める人など、いるわけがない。 「今村さん、君はあの時できる限りのことをしました。あの現場には、おそらく何かしらの複雑な仕掛けがしてあったと思われています。その前情報を持っていない時のことを、今悔やんでも仕方がありません。次の現場に向けて、しっかり体を休めてきてください」 「でも……あのお二人を見ることができなくなったとしたら、これから先、何を目標にしていけばいいか……」  俺はカチンときて、足を止めた。俺はこの手の判断をする人間が苦手なのだ。それは、蒼を心配しているわけではない。そんな身勝手な話を、今聞かされるのは、さすがの俺も辛いものがあった。 「ねえ、今村さん。君はその現場で、何か見逃していたりしない?」  苛立つ俺の気持ちを察したのか、社長室から翠が顔を出してきた。 「社長! いらっしゃったんですね。あの……この度は……」 「そういうのいいから。俺今レベル回復トレーニング中なんだ。ゾーン入り掛けの状態で飛び出してきてるから、回りくどい話やめて。あの現場で、何かいつもと違う感じのするものはなかった?」  ゾーンに入りかけているということは、集中力のトレーニング中だったのだろう。その時、能力をフルパワーで解放して、それがどのレベルであるかを測定することになっている。  それはつまり、いつもより格段にイラつきやすく、キレやすい状態だということだ。今村さんは普段から会話が少々回りくどいタイプだ。いつもの翠なら問題はないだろうけれど、今はまずい。 「今村さん、高レベルセンチネルの集中トレーニング中は近づかない方がいい。ほら、いくよ。翠、これ、お前のコーヒーだ。これ飲んで落ち着いたら呼んでくれ」  むすっとしたままの状態で俺の手から紙袋を奪い取ると、「了解」と言い残して翠は社長室へと戻った。今村さんはそんな状態の翠を初めて見たようで、呆気に取られていた。 「今村さん。君たちが知っているのは、影の努力を終えた後の、出来上がった姿だけなんだよ。あいつだって、蒼だって、毎日常に努力し続けて、これまでやってきたんだ。君も焦るのはわかるけれど、毎日地道に努力を続けることでしか得られないものがあるよ、きっと。それに、蒼のことを本当に思うなら、絶対に体を早くもとに戻しておいてくれ。近いうちに、捜索にいく。その時、留守を預かるメンバーのトップは君になるんだ。通常業務で出動要請が来た場合、君が最初に派遣されるからね。いい?」  俺はそう言って、半分涙目になっている今村さんの肩に、ポンと軽く手をのせた。すると、彼女は唇をグッと結び、無言で何度も頷いて見せた。 「少しでもお役に立てることがあるのでしたら。では、今日はこのまま帰ります」  そう言って踵を返すと、足早に帰宅の途についた。  俺は彼女が引き返した廊下を眺めながら、体を壁にもたれかけた。 『翠、今日遅くなるんだろ? 俺が迎えにいくから、連絡して』  ここからは、いつもそうやって翠を気遣う蒼の声が漏れ聞こえていた。今はそれが無く、翠が集中するためのルーティンとして使用している音だけが聞こえる。 「トン、トン、トン……」 「カッ、カッ、カッ……」  アナログの時計の秒針の音に合わせて、指をトン、トンと鳴らすトレーニングだ。それは、側から見るとただの下品な行動に見えるだろう。イライラしている人が、テーブルを叩いている手癖のようなものと、少々似ているからだ。  ただ、あの状態で秒針のカチカチという音と、翠の指が机を打つ音が、完全にシンクロした時に、翠はゾーンに入ることができる。その状態で資料チェックをすると、通常の五倍以上の速度で終了することが出来る。  そんな風に、高レベルセンチネルになった人たちは、各人それぞれに集中力を高める方法を持っているそうだ。俺は翠しか知らないから、他の方法を見たことはない。  聞き慣れたその音を聞いている時に、蒼がいない。ただそれだけが、これまでと違ったことだった。  社長室から何の音も聞こえなくなり、俺のスマホが震え始めた。ディスプレイには、翠からのメッセージが表示されている。最短の二文字、次の業務への指示開始の合図だった。 『完了』  俺はその場を離れ、晴翔さんへと連絡を入れた。もし、翠のレベルが8以上に戻っていれば、通信すら騒音に聞こえるかもしれない。連絡を取る際は、常にこの場を離れなくてはならない。 『翠の準備終わりました。測定お願いします』  晴翔さんからは数秒待たずに『了解』と返事があった。それを確認してから、今度は鉄平へ連絡を入れる。 『予定通り、社長室の廊下前で待機。もし中からノックの音が三回聞こえたら、静かにドアを開けて入れ』  万が一ケアが必要になった時のために、鉄平をドア前に待機させる。VDSで蒼がいないとなると、ガイドの最高ランク者は、鉄平の特級レベル7だということになる。  ただし、鉄平は翠のケアをすることをずっと拒否しているため、本当に何かあった時のための保険程度にしか期待出来ない。 『了解しました。でも、本当に命の危機がある時だけにします』  やはり頑なにケアを拒んでいた。それは蒼への忠誠心のようなもので、蒼の大切なパートナーである翠に、他の人がケアをするなんてあり得ないと言ってきかない。 「全くあいつは……」  鉄平の返しに苦笑いをしながらその場を立ち去ろうとしていたところ、反対側の廊下から鉄平が現れた。俺は一言も喋ってとはならないという意味を込めて、人差し指を口に当てた。鉄平もそれに頷く。  俺はそのまま晴翔さんを迎えるために、社長室前のスライドドアの前で待機しようとしていた。すると、突然「あー!」という叫び声が響いた。 「おいっ!」  俺は鉄平が叫んだのだと思い、後ろを振り返った。すると、鉄平は必死に両手を顔の前でぶんぶんと振り続けていた。 「えっ? お前じゃないのか? じゃあ誰が……」  俺が鉄平の方へと早歩きで近づいていくと、突然社長室のドアが大きな音を立てて開いた。そして、そこには、完全にもとに戻った翠の姿があった。 「田崎! これ、この紙袋……」  翠は俺が持って行ったコーヒーの紙袋を持って、廊下へと飛び出してきた。その目はキラキラと輝いていて、その何の変哲もない紙袋に何があったのかと警戒心を高めた。 「それがどうした? 一階のカフェの紙袋だろ?」 「これ……これに、蒼の匂いがする!」 「……はあ!?」  俺は驚きよりも呆れてしまって、やや間の抜けた大声をあげてしまった。鉄平がじっとりとした目でこちらを見ている。やれやれと言った感じで両手を上げると、急にスマホを触り始めた。 ——それより……この紙袋にって、どういうことだ?  突然の翠の言葉に俺が戸惑っていると、鉄平がスマホに向かって叫ぶのが見えた。 「翔平! ちょっと確かめて欲しいことがある。咲人さんと一緒に社長室に来てくれ!」  そうして、俺たちは、興奮冷めやらぬ翠を必死に宥めながら、社長室へと入ることにした。 ◇◆◇ 「本当だ。これ、蒼の匂いだね」  急に呼ばれたにも関わらず、咲人は何の躊躇いもなく紙袋に顔を突っ込んだ。金髪の巻き毛を揺らしながら、上品なスーツ姿の男が紙袋の匂いを嗅いでいる様は、なかなか面白い。  その横からにゅっと首を伸ばした翔平も、クンクンとまるで犬のように鼻を動かした。そして、「確かにそうですね」と答える。 「どういうことだ? これは今朝俺が買って来たものだし、紙袋は新品だったぞ。それなのに、どこで蒼の匂いがついたんだ……」  鼻を鳴らす三人の高レベルセンチネルを前にして、鉄平と俺はその意味を考えていた。紙袋が新品だったのは、取り出した場所を見ていたから間違いない。  では、その紙袋の保管してある倉庫に囚われているのだろうか。それとも、あの店内のどこかにいるのだろうか。もしくは、蒼がコーヒーを買いに来ていたのだろうか……色々考えれらることはあるが、どうも釈然としない。 「匂いがついた経緯は不明だな。この匂い、追えるか? まだ翠を出すわけにはいかないから……」 「じゃあ、俺と翔平と鉄平の三人で行ってくるよ。今日は、澪斗兄さんには慎弥さんがついてるからな」  「頼んだ」と告げて、俺と翠は社長室へと入った。翠の顔は、まるで宝物を見つけた子供のように輝いていた。出来ることなら、その輝きを消さないまま、蒼をここへ連れ戻してやりたいと思う。  この数週間の翠は、ベッドから身を起こしたとしても、その顔にはまるで覇気がなかった。真っ白な髪と真っ赤な目で、虚に外を眺めているだけの生活をしていた姿を、俺は一生忘れないだろう。  その顔が、今目の前で楽しそうにはしゃいでいる。それを守りたいと思った。  そして、そのせいで目を曇らせていたのだろう。この翠の思いの深さが、どれほど判断力を甘くしてしまうのかを予想できなかった。  この笑顔を見た次の日、今度は翠までもが、俺たちの目の前から消えてしまった。
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